目蓋越しに眼球を刺激され、ぼくは思わず転がった。
視界が開く。草の匂いと、側頭部を刺す小さな刺激。穏やかな鳥の囀りが聞こえる。
太陽が真上にあった。目が醒めたのは陽光が原因らしい。はて、今は何時なんだろ。緩慢な動作で左手首を眼前に持ってきて、腕時計を見る。丁度、電子音が響いた。
『午後十二時、です』
何たる偶然、そして嬉しい誤算だろうか、セットした目覚ましが鳴る少し前に起きれたのだ。些細なことだろうけどぼくにとっては大事と言っても過言ではない。低血圧がうりのぼく―――亜紀野司人は言葉の通り朝が天敵である。寝起きが悪いとも言うが、どちらも意味は似たり寄ったりだろう。と、閑話休題。起き上がってぼくはきょろきょろと周りを見渡した。
まるでそこで生まれ、最初に見た風景を見るように。ぼくはゆっくりと噛み締めた。風が気持ちいこの場所は―――
「そうだ」
そうだ。ここは、草原だ。思い出したように―――実際思い出したのだが―――ぼくは呟いた。もう一度周囲を見渡して、改めて確認する。
三六〇度に拓けた視界に、世界から断絶された空間のような感覚。それでいて、太陽は真上で燦然と輝いている。小さい頃から通った場所は今もそのままでいてくれている。安心感を与えてくれて、独特の雰囲気を持つこの場所が好きである。開発の手が伸びていない、誰も気付いていない僻地。小さい頃に作った秘密基地に酷似していて、懐古の意味も含め、何かあってもなくても一日に一回はここに来るのが日課。手足を思い切り伸ばし、また寝転がった。
「いー天気……」
こうも快晴だと眠くなってくるのがお約束である。まあ、遠慮することもないし、見てる奴もいないし。速やかに二度寝が脳内会議で決定された。ぼくはそろそろと目蓋を降ろしていった。
「おやすみなさい……」
こんにちわ夢世界。
ぼくは半ば本気で寝ようとしていた。でも。
「出会い頭の踵落としぃっ!」
覚醒した、いや、させられた。
突然に、でもやはり。それはやって来るものだった。失念していた。
ともかくぼくは世界記録をも狙えそうな速さで転がり、瞬間、跳び上がった。ぼくを狙ってきたならば、ぼくもそいつを遠慮なく倒さねばならない。むしろ倒さねば安眠は得られまい。倒すことこそがぼくの正義。アイムジャスティス。
飛び掛ってきた相手の腕を見事に掴み、勢いも利用して後ろに思い切り投げた。そいつは声も上げられずうつ伏せに着地する。体勢を整えるべく起き上がる『敵』。だが二本の足で立ち上がった時、ぼくの行動は終了している。背中を、掌底で思いっきり突き飛ばした。『敵』はまたまた声を出せずに吹っ飛んでいき、地面に頭から、まるでルパンダイブのように突っ込んでいった。ぼくはその様を悠々と見ていた。
上着とズボンを軽く叩いて、
「ねー。もうやめない?」
倒れたままの彼―――吉野羽月に、言うのも五一度目になった言葉を言ってみた。無論、効果は期待していない。
「諦めたらそこで試合終了と、偉い人も言っていた。なので却下!」
はぁ。溜息が出る。はぁ。おまけにもうひとつ。お値段据え置きプライスレス。ふたつセットで財布はほくほく。気休めどころかお荷物になるが。
「いずれ俺はお前に勝つ。そりゃあもう完膚なきまでに! ふふふ、今のうちに勝利の味を噛み締めるといいさ」
高らかに笑う幼馴染。勝ったはずなのにどうにもやりきれなくなってくる。試合に勝って勝負に負けたとはこんな気分なのか。心労、限界十三歩手前。寝ればそんなものはすっ飛んでいくけど。なので問題は何もない。いや、ある。僕が一日一回ここに来るように、羽月も、僕に勝負を挑むのが一日の習慣になってしまっている。なんとも迷惑千万な話だろうか。こんなことなら、遥か過去のあの時に負けておけばよかったとしみじみ思う。半端に強いというのは時として弱くもなるということの模範的な例。どっちつかずというわけだ。
ここで幼馴染との対戦成績を概算する。たぶん、通算成績、五九百九十九戦五九百九十九勝。……なんてことだ、あと一回戦えば六〇〇〇戦で、ぼくが勝てば六〇〇〇勝で全勝記録を更新だ。よくもまぁここまで、と呆れるぼく。対象は羽月であり、でも主にはぼく自身に向けて。付き合ってあげているぼくのお人よしさに向けて。適当なところで土下座をしながら「まいりました」とか言っておけば、毎日が八時間睡眠の楽園になることは保障される。じゃあ、なぜそうしないのか?
…………。
いや、待て。待て待て待て。
確かに羽月を撃退するのが、朝起きて夜寝るといった行為のように、日常の一環になっていることは認めよう。だけどもそれを待望しているなんて、認められない。それを一旦認めてしまえば、そこから先は襲われては倒し襲われては倒しの、人生が終わるまでの無限ループ。ストレスがいい感じでリミットブレイクし、発狂するかもしれない。こんにちわ白い壁。サイコパスによろしく。
「…………」
屠るつもりで、ローリングソバットを一撃。程よい脚応え。
「ぐえっ」
忍び寄る第二の脅威の撃退に成功。
……これでしばらくは、同じような生活の繰り返しになるのだろう。
「んじゃ、ぼくは行くから、しばらくそこで死んでることを推奨するよ」 少し意地悪っぽく言ってみた。「…………」 返事はない。でも生きてはいるとは思うので、そのまま放置を敢行する。羽月は予想通りに動いてこない。ぼくはそのまま、馴染みの草原をあとにした。
それにしても、ぼくもよく覚えてるものだ。約六〇〇〇回も戦って、約六〇〇〇回も吹っ飛ばしたことを。
足払い。
「いてっ」
掌底。
「ぐほっ」
でこぴん。
「つうっ!」
「弱すぎだよ」 口撃。
呆然としている相手に向かって追い討ちをかけるように言った。いや、実際、追い討ち―――精神への攻撃によるとどめ、みたいなものだけど。相手は掌底がめり込んだ鳩尾の辺りを押さえながら、僕を見る。まだ呼吸をするのが苦しいらしい。手加減なしでやったのだから、仕方がないことだ。
「……」
ぼくが何も言わないでいると、
「な、なんで、俺が負けるんだよ! 道場に入ってきたばっかりのお前に!」
ぼくを倒れたまま、驚きと恐れが混じった表情で見上げる子供―――確か、吉野くん、だったっけ。とにかく、彼がぼくに向かって叫んだ。ぼくは答えない。
「俺は道場で一番強いのに!」
ぼくは答えない。それが癪に障ったのか、吉野くんは素早く立ち上がって、再び掴みかかってきた。ぼくはそれでも何も言わない。
一歩だけ後ろに跳んで、捕食者の如く襲い掛かってくる吉野くんの両腕をかわして、屈み―――顎を掠めるよう、下から掌底を放った。本来なら、狙い通りに掠って試合終了となる。でもぼくは伝わってきたインパクトの手応えで、狙いが外れたことを知る。見事に伸びきったぼくの腕の先に見えるのは、低空を舞う吉野くん。彼はいま、擬似的とはいえ空を飛んでいた。ちょっぴり羨ましがったのは秘密だ。大の字で床に落下し、打ち付けられる吉野くんにぼくは驚いていた。凡俗なら掠ったはずなのに、当たった―――いや、『当たりに来た』が正しい。吉野くんの速さがもっとあったならば違った結果になっていただろう。狙って前に出たのか、それともバランスが崩れて前のめりになったのか、ぼくには判らない。吉野くんが運ばれていく様子を、ぼくはきっと複雑な面持ちで見ていたのだろう。
多分、この時が、ぼくと吉野くんの始まり。
人と人の差というのはどこから生まれるものなのか?
ぼくは真剣に考えた。才能と一言で片付けてしまえば楽だろうに、そうとはいかない。ぼくは自分に何かしらの才能があるとは思わないし、第一、そんな大した人間でもない。自覚できるような突出した力量もないし、そうではないのだろう。
人は誰でも何かの才能を持つとどこかの誰かが言ったけれど、なんとも無限大に無責任な言葉だろうか。言った奴が人間ひとりひとりを視て周って『あなたには……の才能があります』と言うなら話は別だけど、そうはいくまい。人生には限りがある。長いけど無限じゃない。おおよそ百年ぽっちでは世界にいる数多の人間達と見えることは実質不可能に近い。そいつはそいつでありそいつでしかない、判りやすく言うと、Aという人間は一人しかいないのだ。早い話、体はひとつですよー、ということ。クローン技術でも使えばまた違ってくるんだろうけど、でもそういうのは大層な肩書を持ったお偉いさん方の特権になりそうなものである。身を取り巻く環境はとても大切だと思いました、まる。今となって後悔するのは些か遅すぎるような気もするけど、一度くらいしても罪には罰せられまい。これで極刑なんて架せられたらぼくは銃を相棒に国会議事堂に乗り込むのであろう。いざ翻せ、反旗の導。反逆者はひとりで国家に立ち向かうのだ。おお、かっこいい。けど愚かしい自殺行為に他ならない。
現実はそんなに甘くないのだ。そう、甘くない。塩くらい甘くない。達観はしていないと思うけども、よくマセた中学生などと言われることもある。そりゃあ十三歳の青少年がこんな冷めた思考回路を持っているっていうのも珍しいだろう。でも性分なのだから仕方がない、と割り切ることにしている。周りがなんと言おうとぼくは変わらないのだから。ぼくは羽月の正拳突きを払いながらそんなことを考えていた。
中学一年生の春、ぼくと吉野くんはいつのまにか互いを呼び捨てにする仲になり、おそらく一番の仲良しと言える存在になりつつあった。会うたびに、まずは拳でご挨拶(羽月だけが。ぼくはいなすだけだけど、時々、勢い余ってあらぬ方向に投げ飛ばしたりする)。十中八九気絶する羽月を、文字通り引き摺って保健室に放り込み、ぼくは何食わぬ顔で授業へ出る(五日間の授業のうち、四日はこうなる)。当初は徹底的に倒しておけば懲りて引っ込むだろうと考えていたけれど、浅はかな思慮であることを、繰り返し繰り返しやられに来る羽月を見て知ることとなる。諦めないことはいいことだ。素直にそう思う。けど、度が過ぎると粘着してくるヘドロのように悪質になっていく可能性も拭いきれない。ぼくは羽月もそうなってしまうのだろうか、と、ちょっとだけ心の中で気遣いもしたこともある。
中学二年生の春、ぼくの心配が杞憂に終わって、羽月は踏まれれば踏まれるほど強く成長する草ということを知り、それでも止まらない春。日直と言うことなので、いつもより朝早く起きたぼくは学校でてきぱきと仕事をしていた。それも終わりさぁおやすみといったところで、天災の前触れか、時間には疎い遅刻魔羽月が登校してきた。互いに「よ」と短い挨拶をしてそのあとは、当然、いつものように真正面から遠慮も躊躇もなく、いきなり踏み込んでくる羽月を迎え撃つぼく。初撃の脚払いを紙一重で後ろに跳んでかわすと、予見通りに追撃にかかろうとする羽月を確認。ぼくは着地と同時に前に跳び、羽月の顔に容赦なく掌底をぶち当てた。心地良い炸裂音とともに崩れ落ちる羽月の体。支えるべくぼくは警戒態勢を解いて、羽月に歩み寄った。突如、眼光鋭く。ぼくは背筋どころか背中全体に氷を山ほど入れられた気がして、一瞬だけ、一瞬だけだが、我を忘れた。冷静になってみれば、目の前には大の字で気絶しきった羽月がいた。
その時、ぼくは自分が息切れをしていることに気付いた。今までは浅い呼吸数回だけで持ち直したと言うのに、この変貌は何を表すのだろうか。深呼吸をし、ぼくはもう一度羽月に近付く。腫れ物を触るように、慎重すぎるほどに慎重に。気を研ぎ澄まし、背筋を伸ばして、ぼくは羽月に触れた。羽月はうんともすんとも、ぴくりともしなかった。ほっとするのも束の間。なんだよ、気絶してることに安堵してどうするんだ、ぼくは。自分自身の愚行を諌め、改めて羽月に触れ、負ぶった。目的地は、いつも通りに保健室。
思い返してみれば、羽月は正面から正々同道とぼくにぶつかってくる。そこにはどんな権謀術数も策略もなく、ただただ、自らの成長を他者、あるいは自分、もしくは両方。それらに認めさせたいだけなのだろう。ひたむきすぎて、時折周りの反感を買うこともある。そしてその矛先にぼくがいるわけで、原因かもしれない身としては少々複雑だ。もっとも、ぼくはこう見えても案外負けず嫌いなので、十年経とうが百年経とうが負けるつもりはない。微塵も、塵芥も、さらさら。なんだ、羽月はヘドロとは正反対じゃないか。
「…………」
いや、待て。それは一生ものの問題に昇華するかもしれない、重大なる決断だ。いや、する、間違いなく。羽月のことだからきっと勝つまでぼくに向かってくるに違いない。そしてぼくはことごとくそれを打ち負かしていく。鮮明すぎるビジョンをぼくは想像して、眩暈を起こした。先の決意がもう揺らぎそうになっていた。ぼくの意思、貧弱すぎ。背中で暢気に気絶しやがってくれている羽月を、ぼくはあっさりと背中から落とす。シリアスに考えて損した。やっぱりいつも通りに、引き摺ることにした。その日、保健室への道のりはやけに長く感じた。
「………ん」
あれ、保健室に羽月を放り込んで意気揚々と教室に戻っていたはずなんだが。そして国語から始まる学校の一日を迎えようとしていたのに、気付けばベッドの中で、半分も覚醒していない思考回路を持て余している。これが噂のタイムパラドックスだろうか?
「いや、違う……」
さっきまで現実と思っていたのは夢で、過去に実際にあったこと。数ある羽月の襲撃の中で、なぜか鮮明に覚えていることだ。しかし、こうして夢にまで見なければ特別に思い返すこともない出来事が、どうして今朝に限って、しかも夢になって出てくるのだろうか。なにかの前兆かもしれない、ぼくはそんな非現実な思考に辿り着く。いや、そんな漫画じゃあるまいし、辿り着いた場所には先があったので、ぼくはそこに足を踏み入れる。想像論は何も生み出さない。生み出すとしたら、人の願望を幻想に具現化する白昼夢くらいである。そんな非生産的なものは一個体としては認められないし認めたくもない。布団から這いずり出ながらぼくはそんなことを考えていた。
やっぱり今日も昨日と変わらず、延長戦のようなものだ。なにも変わってない、変われないんだ。ぼくは間違いなくそう思っている。
「…………んで」
割と低めの口調で、ぼくは威圧するように―――いや、威圧するべく、かすかに開いていたドアに視線を向けた。音はさすがに毎朝見抜かれているだけあってひとつも聞こえない。が、そんなことでぼくを欺こうとは百年飛んで一億年早い。片腹痛いとはこのことか、いや、このことだ。実際は痛くもなんともないが、適切な表現はこれしかないだろう。「とにかくだ」そこで思考を切り上げて、ぼくは布団の側に常備してある長めの木の棒を右手で持ち、ドアの隙間にいるであろう人間目掛け、当てるつもりで突いた。手応えを感じた瞬間に鈍い音がして、ドアの向こうから「いたた……」と小さく、情けない声が次に聞こえてきた。毎朝のことながら、成長しているかと思えばそうでもない。今日もドアをゆっくりと開いて、おでこを擦りつつ苦笑いを浮かべるのだろう。「お、おはよう、しーくん」ほら、やっぱり―――、あれ。
「今日のわたしは、昨日のわたしの三倍は性能が違うんだからね」
銀色の鍋の蓋をぼくの眼前にぷらぷらとぶらさげつつ、姉さんは心底から可笑しそうに笑った。ぼくはとりあえず、棒を若干短く持って、
「いたっ!?」
遠慮の欠片もなしに、小突いた。しかも数回、ねちっこく。理由と聞かれれば、なんとなくこの人が対策を用意しておいたのが悔しいからである、と答えよう。女性も平等にとはなんとも素晴らしいお言葉だ。どこの誰かは記憶にないけど、ありがとうと心の中で密やかに祈った。信じるものは救われる、単語を変えて掬われるとも言う、ぼくの持論のひとつ。繋げれば、信じるものは救われつつ掬われる、という平々凡々な単語が誕生する。自分自身の貧困な創造力と想像力に辟易しつつ、ぼくは棒を床に置いた。姉さんはいまだに痛がっている。演技というのはばればれだが、やはり世間的に体裁はよろしくない。この前小突いた時、涙目で隣家に駆け込もうとした苦い悪夢が切々と蘇ってくる。ぼくは周りの目を気にするのだ、小心者だから。
「しーくんてば、嫁入り前の女の子を好きなようにいたぶっちゃいけないんだよ。逮捕されるよ。そういえば、取調室で出されるカツ丼って美味しいのかな」
事前知識がない第三者が聞けば確実に誤解を招く物言い。ぼくは起き上がって、ほぼ同じ身長の姉さんの頭を手刀で叩いた。カツ丼は置いといて、ぼくは正当防衛をしたまでなので、こんなことを言われる筋合いはないし、逮捕されたら不当な公務として反逆者となろう。もっとも、やはりそれは愚かな転身だが。毎朝の儀礼になりつつある行為を一通りこなし、ぼくは部屋の隅で体育座りになっている姉さんを睨んだ。着替えたいので退場を願う、という強力な意思を込めて。気付いたらしく、姉さんはぼくを恨めしそうに(実際恨んでいそうだが)見て、肩を落とし部屋を出て行った。弟分として、いや、一介の男として、着替えをうら若き女性に見られたいなんて願望を持つことは変態であろう。加え、彼女はあろうことか、気が狂いでもしているのか、自慢するつもりはないけど、……ぼくを狙っている節がある。よって追い出すことは紛うことなき正解である。「はぁ……」 毎朝のことと言えど気は滅入る一方だ。
姉さんだなんて呼びはしているものの、肩書としては幼馴染と呼ぶのが一般的には正しい。年は彼女の方が二つほど上だが。この前、姉さん―――本名、瀬川七美を小さい頃の愛称でなーちゃんと呼んでみたらなぜか怒られた。ついでに年の話をしたらもっと怒られた。涙目になりつつ掠れた声で言訳をしたら許してもらえた。もちろん演技だけど、そんな真実は、告げたあとが恐ろしく恐ろしいので言えない。ちなみに、彼女は年上の頼れるお姉さんでありたいらしいので、ぼくには姉さんと呼ばせるらしい。人間同士の関係というのは説明するのも億劫なほどに理不尽だ。誠に遺憾ですが、わたくし亜紀野司人はそう思う所存でございます。かしこ。
あて先不明の手紙風に自分の中で纏め上げると同時に、制服への着替えも完了した。「さてと」 鞄を持って、朝食を摂って、いざ学校に――――。ここでぼくは、なんとなく嫌な予感がしたので再び棒を持ち、なぜか開いているドアの隙間目掛け力いっぱい振り下ろした。
「ふぎゃっ」
ぼくはほとほと呆れるしかなかった。朝くらいゆったりと過ごさせてくれ、心からそう思う。
家を出て、やっぱり変わり映えしない通学路を歩く。視界に映るのはぼくと同じ学校の制服と、近くに存在する姉妹校のお嬢様学校の制服。どこにでもある偏差値が学校の裏山並みの県立高校である我が学び舎とエベレストのような偏差値を誇るお嬢様学校がどういう経緯で姉妹校になったのかは、互いの高校で共通の七不思議のひとつと数えられている。ぼくは当然、前者に通っている。問題があるとすればそれは、姉さんがお嬢様学校に通っているという事実だけ。問題というか、間違いなく真実なのに認めたくないというか。いくら悪足掻きをしても現実は変わらないというのに、ぼくはそれだけが未だ納得いかない。家ではあんな立ち振る舞いの彼女が、学校に着いた途端に「ごきげんよう」とのたまうのが想像できず、思うたびに苦労する。単にぼくの想像力が人並み以下よりも貧困という要因も絡んでいるのかもしれないが。なんとなく朝からマイナス思考に陥りつつあった。でもそれがアイデンティティになりつつあるので、否定が出来ないのが少し悔しい。
「……はー」
アイデンティティ確立のために溜息を吐いてみた。気分は全力で後ろ向きに全力疾走、しかも止まる気配もないご様子だ。若者らしくないと言われても反論のしようがないし、しようとも思わない。理由として一番近いのは、面倒くさいから。……老けてるなぁ、ぼく。もう駄目かもしれない、いろいろと。これで高校一年生っていうのだから、世界はやはり理不尽の象徴であり、塊だ。ぼくも姉さんのことをそんなに悪くは言えないような、そんな気がする。今度からはちょっと、そう、できるだけ穏やかに小突いてみよう。腕を振ってデモンストレーション。手加減が難しいのが些か難点だけど、そこらへんは我慢してもらうしかない。ぼくにだって保身の権利はあるのだから、いくら姉さんがぼくを好こうが、ぼくにその気がなければそれはただの押し付けにしかならない。健康な男子高校生とはいえそれくらいの節度はある。もっとも、ぼく自身が世間一般の健全である条件を満たしているかどうかは一切わからないが。
朝からこんなにもネガティブになれる自分に感心してしまう駄目な自分がちょっと好きだったりする。もしかしたら言葉に出来ないほどに、もうぼくは駄目なのかもしれない。たとえば、この廃れきった頽廃を歓迎するこの脳みそとか。
「あ」
しかしそれですべてが構成されているわけじゃないことを思い出す。右を見ると、いつも通り過ぎる細道が見える。左を見るとぼくが唯一知る、百メートルほど歩けばそこはこの街唯一の歓楽街といえる場所への入り口が見えた。ただし、そこは正直好きではない。騒がしいのは嫌いじゃないけど好きでもない。どちらかと言うと、ぼくは閑静な庭で俳句を嗜む方が好みだ。付き合い程度には行ったりはするけど、自主的に行くには少々場違い(もちろんぼくが)な感じが拭えない。よってこの場合、ぼくは左のプロセスを無視し、右を見よう。その細道は学校への近道であり、でもぼくは通らなかったりする。途中、ぼくの二人目の幼馴染が住む家があるからだ。平和主義者である亜紀野司人は戦いを好まないので、襲撃される可能性があるならば回避の道をとろう。友好の道は、荊どころか一歩進むたびに核爆弾が設置されているという、地雷もびっくりのデンジャーゾーン。朝から体力を消費するのは無駄な行為に他ならないわけで。握手はしてくれるだろうけど、その後の展開は容易に想像できすぎて逆に何が起こるかわからなくなってくる。
地雷は踏まないに越したことはない。よって、いつも使っているいつもの道をいつもの歩幅でいつものように歩くことに決定。
毎朝これくらいのプロセスを踏んでいることを考えると、ひょっとしたらぼくはちょっとだけ天才なのかもしれない。その考えが浮かぶと同時に脳裏に蘇る一言は「馬鹿と天才は紙一重」に他ならず。どっちもぼくには相応しくないような気がした。とにかく、ぼくがただの後ろ向きまっしぐらな人間ではないことは多少なりとも自分自身で理解している。そう、吉野羽月との手合わせが、それを理解できる瞬間である。戦いは好まないと先で結論付けたにも拘らず、ぼくの脳みそは羽月との対戦を所望しているらしい。なんて巨大な矛盾を抱えてしまっているのか。でもまぁ、それでもいいやと妥協してしまう。ここのあたりがぼくが自覚する中で最も重く、最も苦く、最も甘く、最も愚かで、最も最悪な部分。
「はぁ」
ただいま午前八時二十二分。起床から今までの概算時間、おおよそ一時間半。出た溜息の回数は自覚するだけで七回以上。
「決定的にネガティブだよなぁ、ぼくは」
でもそれがぼくの基本的なスタイルである。花や茎などの形は変えられるも、根源を変化させるのは不可能だ。困難ではなく、圧倒的に不可能なのだ。たとえ生まれ変わって新しい人間になったとしても、それは別人以外の何者でもない。よしんば記憶を持っていたとしても、刻み込まれた自分と柱がある以上、根源は何一つとして変わらない。さながらクローンのように。だからじたばたするだけ無駄だって、ぼくは思う。
……あれ? もしかして、ぼくって、後ろ向きなんじゃなくて。
「ただの流され上手かもしれないってことかな……」
言ってみて、どうしようもなく虚しくなる。基本的人権もなにもかも、決定権すらぼくには無いのかもしれないと言うことだ。それはかつてない未知の恐怖をもたらす。流されるだけ流されて、知らんぷりができるというのは、いかなるものか。少しだけ真剣に考えてみた。壊滅的に壊滅し、決定的に決定している、壊れかけの旧式のタイプライターのような思考回路で。歩きながら考えて、校門の前に辿り着くと同時に結論にも到着した。うん、よくわからないや。
理解する気もないくせに。
直後に自分からツッコミが入った。
「おはよ、司人くん」
聴覚を穏やかに刺激する口調とは裏腹に、ぼくの後頭部を襲う激しい痛み。自分から自分へのツッコミの続きなのだろうか。はて、ぼくはいつのまに超能力者に。そして思うに、これこそがひとりツッコミに違いない。嬉しくはないけど、なんとなくガッツポーズをとってみた。天に向かって咆哮すれば完璧になるだろうけど、気が触れた可哀相な少年として精神病院からお迎えが来そうなのでやめておく。小さい記事で三面記事を騒がすマゾっ気に酷似した趣味はこれっぽっちもない。痛みはまだ治まらない。けど、ぼくは気にせず歩くことにした。痛いのは勘弁願いたいものだけど、往来で頭を抱えて蹲ってしまっては、通行する方々にとって障害物にしかならない。小心者なので、ぼくはそうすることをしなかった。
「あ、あれ、無視、無視するの? 無視されちゃうの?」
「…………」
ぼくのすぐ右で困った表情を浮かべる女子生徒が約一名。はて。見覚えがあるにはあるけど、名前と顔が一致しない。これがさきほどのひとりツッコミの後遺症だろう。何かと引き換えに達成感を得るという、基本に基づいているところに、ひとりツッコミの大切さを垣間見た。この場合は痛みと引き換えになる。ちょっとだけ遠慮願いたい達成感だった。そこらで思考回路を並列から直列に切り替えて、右方の彼女が誰なのか、符合に取り掛かる。少し青みがかった長い髪を携え、ぼくより若干小さい背丈に、絶やすことのない笑顔を浮かべている。すぐに答えは出た。万歳、現在進行形で壊死中のマイ頭脳。
「おはよ、マリアちゃん」
ぼくが名前を呼んで挨拶すると、マリアちゃんは物凄く嬉しそうに笑った。あ、この場合は、挨拶してから名前を呼んだ、が正しいか。とにかく儀礼を済ますと、ぼくらは並んで歩く。校門は疾うに通過していて、玄関まで五メートルといったところ。ぼくは人知れず、気持ちを身構える。ここ三日、奴の襲撃はまずここから始まる。ならば今日も無表情で投げ飛ばしてやろう。隣ではマリアちゃんが、何がそんなに嬉しいのか疑問に思うほどの笑顔を周囲に所構わず振り撒いていた。彼女―――美里マリアはけっこう可愛い方だと周りは言う。ぼくもそう思うので、ならばマリアちゃんは可愛い部類に入るのだろう。考えが周囲に流されてるだけかもしれないが、それでも可愛いことに間違いはない。ぼくの意見が介入する余地もないほどに、周りが彼女を認めているのだから。そんな口には出せないことを考えながら、ぼくらは玄関を潜る。
「……あれ?」
靴を脱いで上履きに履き替えると、違和感を覚えた。なにかが違っているのだが、ぼくはそれに気付けずにいる。それを遠目に見ているのもぼくだった。マリアちゃんが怪訝そうに、どうしたのと訊ねてくる。ぼくはなんでもないよ、と答えた。そう、なんでもない。多分、今日は違ったのだろう。どこからやって来るかは完全にランダムなのだから、いつでも身構えておこう。とりあえず玄関ではなかっただけだ。それだけだ。
第六感、虫の報せ、シックスセンス。どれが適当かは判らないが、ぼくはそういう類のものは信じていない。圧倒的に現実味がない、なさすぎる。信じるに値するにはまず情報が必要で、なにがどうなってこうなったが基本になる。なにが、が欠けているなら、結果論から導き出す。他のが欠けていても同様にする。でも、すべてが欠けていた場合は、推測の領域から外の真実の領域には永遠に辿り着けない。真実を匂わせるファクターが成立して形になって、はじめて尻尾を掴むことが出来るのだ。だから、推測のみを象ることしか出来ないものを、ぼくはやはり信じない。
「ほら、早くしないと先生来ちゃうよ」
「あ、うん、そうだね」
でも、何故か、この時のぼくは。
「そう、早く、行こう」
少し急いで、ぼくは遅めに歩いているマリアちゃんの隣に並んだ。
その日、羽月はいなかった。
学校にはもちろんのこと、家にもいないし、いつもの場所にもいないし、当然のことながら商店街にもいなかった。ぼくは学校が終わると、早速羽月の携帯電話の番号をダイヤルしてみたが、誰も出なかった。家に向かうと、昨日から帰っていないということだった。商店街で一夜を過ごすことも珍しいけどあるので、探してみたり人に訊いて周ったりもしたが、これといった収穫は得られなかった。部屋の中心に寝転びながら、本当に珍しいこともあるものだ、と考えた。一日の中で一回もぼくに挑んでこない時はなかったのに。心配はしていない。羽月はぼくに負け続けの人生とは言えども、そんじょそこらの不良やチンピラなど指先ひとつでダウンさせそうなほどに強い。だから、よほどのことが無い限りは安心できる。
―――けども、不気味だったりする。ありえないと声を大にして叫びそうなほどに、ぼくは不気味さを感じていた。第六感などを信じないぼくが、言いようの無い不気味さに好きなように嬲られていた。なんとも滑稽な光景だろうか。しかし、ここまで来れば信じないわけにもいかなかった。ぼくはシャツの胸元を握り潰すように握り締める。血が滲み出そうなほどに握り締める。まるで、目に見えないものを握り潰すように。今は黄昏時、夕陽が視界に入ってきた。午後五時、そろそろ姉さんも帰ってくる時間だった。ぼくは羽月のことを一旦隅に追いやって、並列思考を直列に切り替える。それだけで、心が軽くなるような気がした。気休めだとは判っているけど、ぼくには必要不可欠なものに違いないのだ。いつ壊れるかもしれない、ぼくにとっては。
ぴりりりりりり。
その時だ、ぼくの携帯電話が鳴った。買った頃と変わらない着信音で着信を報せる。手に取り、液晶画面を見て、相手を確認することにした。大の字をやめてごろんと横に転がる。丁度、茜色の夕陽が灯りを点けていないぼくの部屋の照明代わりになり、画面を見ることが出来るようになった。「よしの、はつき」 声に出して呼んでみて、考えて、もう一度見て、それから少ししてぼくは文字通りに飛び上がった。着信音はまだ止まらない。「吉野、羽月」 もう一度、今度ははっきりとした口調で呟いた。今日はどうして学校に来なかったんだ? なんで家にもいなかったんだ? 探したんだよ? 様々な疑問が渦巻いては、ぼくのシナプスに蓄積していく。まだ着信音は鳴っている。まるで、ぼくがいることを知っているかのように鳴り続ける。ボタンをゆっくりと、慎重に押した。短い電子音のあとに、ぼくはまずは「もしもし」 と言ってみた。すると相手も返す『もしもし』 羽月の声のような気がするが、覇気がなさ過ぎる。でも羽月に間違いないと感じさせられる、毎日聞く声だった。
「ねえ、羽月。今どこにいるの?」
ぼくは訊くべきことをまず口にした。電話の向こうからは何の言葉も返ってこない。言葉ではなく、荒い呼吸のような物音なら断続的に聞こえる。
「羽月………?」
思わず名前を呼んでいた。独り言のような音量で、ぼくはあいつの名前を呼んでいた。信じ始めていた第六感という奴が否応なしにぼくの頭を締め付けている。ぼくは電話を握り締め、応答を待った。待ち続けた。それから幾ばくか時間が過ぎ、やっと羽月は言葉を投げ返してきた。
『いや、なんでも……ない、から』
「なんでもないって、そんなわけ」
ぼくが返しの言葉を言おうとすると、ぷつ、と注射針が肌に刺さるような音がして、通話は切れた。しばらく呆然としたあと、ぼくは携帯電話を部屋の隅に放り投げた。そして部屋の中央に胡坐をかいて座り、頬杖をついた。直列から、並列へ。そこから思考は始まる。なんでもないから、という言葉、口調、荒い呼吸、この三つからぼくは推測を構築し始める。荒い呼吸で、静かな口調で、なんでもないから。これはいったい何を表すものなのか、ぼくは全力で様々な可能性を当てはめては消していく。十分後、すべてが消える。これは時間の問題であった。ただし、今まで頭の中で列挙し消去していったのは、あくまでも『常識という領域の中』でありえる最大限のもの。万一のために、ぼくは『それ』以外を考え始める。
「オーケイ、中々にありえなさすぎる」
宇宙人、UFO、口裂け女、妖怪赤マント、チュパカブラ。不可思議すぎる単語が思考回路を所狭しと駆けずり回る。五分ほどしてからきりがないことにようやく気付いて、そこで考えを断ち切った。考えるよりも、動いた方が、得策かもしれない。今日のぼくはまるで偽者のように、やや前向きのようだ。吐き気がするほどに。とにかく、考えて事態が進展するような漫画のような約束はありえない。じゃあこちらから動いてみよう。ぼくはそう決めると、携帯電話を拾い上げ、部屋を駆け足で退室する。階段を騒音なんて知ったことか的な勢いで降りていって、玄関で姉さんとすれ違い、「あ、しーくん。ただいま」「おかえり、今夜は店屋物でも食べて」 和やかな会話を交わし、ぼくは外へと飛び出した。遥か後方から甲高い罵声が聞こえる気がするけど、所詮は気がする程度のものと認識して、放置を敢行する。あとが怖いなんて、その時のぼくは考えもしなかった。
そう、『後が』怖いだなんて、微塵たりとも思わなかった。
通話ボタンを再度押して、通話を切った。その時、右手から携帯電話が滑り落ちたので、拾い上げようと身を屈めた。路地裏の硬いコンクリート上に、少々派手な音を立てて落ちたにも拘らず、液晶画面は変わらない光を湛えていた。それがちょっとだけ嬉しかったりする。
「つ………」
胸の辺りに常駐する熱さが、若干増したような気がした。箇所を押さえて、蹲った。ひどく苦しいけど、それを上回る解放感があった。でもそれには従ってはいけないような、警告に近いものが連続して頭の中で鳴り響いている。従うのなら、与えられたものではなく、自分で選んだものにする。携帯電話を握り締めながら、壁に背中を預けた。
「いったい、どうなってんだか……つ」
ちゃんと『くっついている』手足が疼く。熱を持った氷のように、疼く。ひどく冷たいような気もするが、ひどく熱い感覚にも捉われる。指を動かし、履歴のページを開いた。亜紀野司人の番号が、そこには銘記されている。通話のボタンを押して、だけどそこで目が覚めたようにはっとなって、指の動きを止めた。さっきは、電話して、あいつになにをしようとしたのか、したかったのか。そんな五分前の記憶すら今は危うい。必死になって、頭を抱えて―――「そうだ―――」 思い出した。
俺は、あいつを、殺そうとしたんだ。
なんでそんな所に行き着くのか解らない。そりゃあ確かに、あいつには勝ちたい。けど殺すなんてことはありえない。殺すぐらいなら殺されるのを望む。自分の思いにすがり付こうとした時、再び胸が灼熱の熱を持つ。声も上げれず、その場に倒れた。朦朧とする意識で、昼間のことを―――正確には、そのあとのことを、思い返してた。
夢を見ていた気がするが、もう覚えていなかった。
どれくらい草の匂いの中でまどろんでいたかも覚えていない。気がつけば、もう夜だったり。少なくとも三時間以上は見積もっても大袈裟じゃない。手加減なしに綺麗に顎に炸裂したらしく、ひりひりする。擦りながらぼやいた。
「んー……、まだまだかー……」
もう少しと思ったら突き放され、その少しの差が絶大なものと思い知る。努力の量は両方勝るとも劣らない。多分、少しとは、あいつにあって自分にない天賦に他ならない。でも諦めるわけにはいかず、今もこうして明日の襲撃のプランを練るのだ。次こそは、次こそは。それらのごり押しで今に至る。報われない努力かもしれないけど無駄ではないと思う。おかげで、自慢ではないが、相当の根気を養えたと思っている。並大抵のことではへこたれない自信がある。けして過大評価ではなしに。
「」
まだ遠い幼馴染の背中を思い浮かべ、ひとりごちる。寝そべったままで夜空を凝視した。星たちが、見ていて不快になるくらい自分勝手に光っていた。その様子を見て、星もあいつと同じくらい遠い所にいるのかもしれない、などとロマンチストみたいに思ってみた。ガラじゃないなぁ、とすぐにその考えを撤回する。
「いや……」
物言いはガラじゃないかもしれない。けども、意味は間違っていないと思った。絶対的な差。埋まらない差。埋められない差。あいつとの差は絶対的で絶望的なもの。埋められないことくらい解ってる。マリアナ海溝の水をスプーンで掬い続けて、空にする。もしくは、底が抜けた柄杓で。それくらい無理なことだ。
「やっぱここは寒いな……」
夜風が体を冷やす。身震いしてから立ち上がった。やっぱりここは冷える。早く帰宅し、こたつにみかんという贅沢なアイテムを堪能することにしよう。あとは熱い風呂に心行くまで浸かり、布団の中で心地良い眠気を堪能しながら一日を終える。なんともまあ、贅沢すぎる。そうと決まればとっとと立ち上がって―――――
「………え」
立ち上がって。そう、立ち上がればいいんだ。なのに、なんで俺は立ち上がらないんだろうか。冷静に考えれば昼間のダメージが抜け切っていないという結論に辿り着く。そうならば、寒さに耐えてしばらくココで休んでいけばいい。
ふと、脚に視線が移る。おそるおそる、隠れん坊で鬼が近くまで来ていないか確認するように、脚を見た。そこには何もない。「え」
あれ、脚がない場合はどうするんだっけ? どうやって立てばいいんだ? 答えはひとつ。
立てない。
弱ったな。車椅子は流石に用意してないぞ。どうやって帰ればいいんだろうな。そうだ、腕があるじゃないか。腕を使って這って帰ればいいんだ。と、思ったら、腕が動かなかった。おかしいな、と思った。さっきまでは自由自在に動いた左右の腕がピクリとも動かないなんて。
「う……あ」
苦しげな呻き声が聞こえた。誰のかは判らない。けど、どこかで聞いたような気がする。誰のだっけ? なくなった脚の代わりにしようと思った腕を見る。そこにも何もない。なんだ、どこに行っちゃったんだ? 脚も、手も、なくなったら動けないのに。困った。
麻痺している思考の隅に痺れが走る。ちくりとした痺れだ。失ったはずの両手両足がむず痒くなってくる気がした。でも、それがなんなのか、判らない。
『フグルフズジジリビ』
得体の知れない声を聞いた。それが声なのか、音なのか、理解はしなかったけど、直感的に声だと思った。さきほどの呻き声は、こいつのものだろうか?
『シンユルアグユリィイグ、ツユツルゥウィイ』
そいつはなんとも形容しがたい姿形をしていた。星と月の光だけが視界を支える手段。心細いその手段だけでは、到底、そいつの正体を認識することは難しい。
でも、そいつを良く見ると、微かに光る二つの点があった。おそらくそこが奴の目なんだろう。これもまた直感だ。徐々に思考が明瞭さを取り戻していく。
そして。
気付かなければよかったと思った。気付かなければ発狂して、自身の死すら認められずに死ねたかもしれなかったのに。でも、気付いてしまったのだ。つきつけられた、紛れもない真実に。嘘と偽りなんて介入の余地がない真実に。現実のみで作られた絶望的、あるいは決定的な真実に。
倒れ伏す俺の眼前に何かが放り投げられた。おそらく、目の前にいるそいつが投げたものだろう。とにかくそれをまじまじと、じっくりと凝視した。
数分前までは俺のものだったに違いない、腕と、脚。そこにあったのだ。どこに行ったのかと思いきや、親切なそいつが拾ってくれたのだろうか。礼を言わなきゃいけない。顔を上げると、そいつは本当に、『眼の前』にいた。そして、俺の腕と脚に『齧り付く』。何をするのか、思った瞬間には『食い始めていた』。
豪勢な食事にありつくように、遠慮もマナーもなく、ただただ貪るだけの食事風景。猟奇的な食事。食猟。ばき、がり、ぶち。ばき、がり、ぶち。折り、噛み、千切っていく。本能の衝動を抑えられないような、見ていて吐き気を催す食事。
気がついた。気がついてしまった。気がつかざるをえなかった。
はて、今、あいつが食っているのは―――?
両手。俺の。両脚。俺の。
さっきまで、俺の所有物だった、俺の両腕と、両脚が。
『食われた』
強制的に認識させられる。そこでようやく現実が霞みを振り払い、目の前に突きつけられた。自発的に認識することができた。痛みはやってこない。でも、そんなことは些事だ。別段気にするべきことではない。問題は、ここから、どうやって逃げおおせるか、なのだ。そのためにはどうすればいいのか? 両手両脚を失ったこの状況でどうすればよいのか。落ち着け、落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け!
「う、うわぁあああ!」
でも、理性と現実はかみ合わなかった。非常事態は非情だった。大声で悲鳴を叫んでしまうと、それを待っていたのか。そいつが食事を途中で止め、こちらを向いた。逃げられない獲物を、さてどうやって食ってやろうかとでも考えているのか、ゆっくりとこちらに歩いてくる。微かに光っていたであろう点は激しく強く輝いていた。そして仰向けにされて、押さえ付けられた。強烈な予感、そして悪寒が、達磨になった体中を駆け巡り、支配し、打ちのめす。血は相変わらず、出ていない。代わりに汗が滝のように噴き出てくる。正常に戻った思考を呪う。認識せずに、殺してくれれば、よかったのに。それは、出してはならない諦めの言葉。めったなことではへこたれない筈なのに、出てしまった諦めの言葉。両手と両足を失うことはめったなことか、はて―――、もう、わからない。考えるのも面倒になってきた。やがて。
そいつは『笑って』。
意識はそこで消滅する。
あてもなくぶらつく趣味はない。そんなことは無駄なことだし、大切な時間の浪費に他ならない。もっと有効活用できる道があるはずだ。でも、そんな無駄すらも、実は有益なのではないかとぼくは考えていた。後ろ向き全開ではなく、少しだけ前向きなぼくらしくない考えだったけども、それすらも含めてぼくという種は存在することを知るのではないか。だったら普段のぼくの言動が無駄に思えてならなくなってくる。が、その前の前の思考から考えると、それは無駄ではないということになるのだ。おそらく、今まで生きてきて、自分発の前向きな考えに賛同したのは初めてだ。
「双眼鏡、持ってくれば良かった、かな……」
小高い丘で、空を突き上げるように聳え立つ巨木。ぼくは正に、現在進行形そこの天辺にいる。登るのはけっこう苦労したけれど、ここから展望できる眺めは絶景の一言に尽きるもので、のんびり見る分にはもってこいのものだ。でも今はのんびりしている場合ではないので、何故こんなところにわざわざ登っているのかと事情を聞かれたら答えに窮するに違いなく。
「…………」
……双眼鏡持ってくれば良かったな。
この街で一番の眺めを誇るここならば、もしかしたら羽月の姿を拝めるかもしれないと思ったんだけど、双眼鏡と言うアイテムを携えていなかったぼくは心底から困っていたりする。目を凝らしても見えるものは、街の向こうの更に向こうに直立する巨大なビル群と、少し濁った青い海と、澄んだ青い空と、鳥。あとは小さくなったぼくらの街。いかんせん遠すぎて人の顔どころか姿すら判別できない事実。もしかしてぼくは無駄なことをしているのかもしれない。しかしその無駄すらも以下略。
「……ふぁ」
いや待てぼく。ここで寝たらいかんぜよ。土佐弁になりつつ、突如として沸き上がった眠気に抗う。月も出張ってきているこの時間帯、ぼくは腕時計を見る。ボタンを押して画面を光らせると、ゴールデンと呼ばれる時間である午後七時だった。そういや辺りが薄暗いというか真っ暗というか常闇というか。とりあえず追いすがる睡眠欲を振り切って、ぼくは木から降ることにした。昇りよりは若干は楽なので、さほど時間をかけずに降りることができた。「うわっ」 高さ三メートルほどのところで枝から飛び降りる際に、バランスを崩した。前転で転がりそうになるけど踏ん張り、ぼくは仁王立ちのようなポーズになる。街中を走り回って、丘に登って、木に登って、飛び降りて。さすがに疲れたと脚が主張していたのだろう。ひ弱じゃないんだよ、本当だよ。
「うーん……」
ここで、遥か彼方に特大ホームランでかっ飛ばしたはずの眠気が再来襲してきた。目蓋を擦り、ぼくはなんとか堪える。別に重度のものではなかったため、これからどうしようかと考えることにした。少なくとも今まで走り回ってきた場所に羽月はいなかった。ならば、どこをどう探せば手がかり、あるいは真相に辿り着けるのか。ここでまた、思考回路が準備に入る。直列だった思考が並列になり、フル回転でぼくは脳みそを回転させる。並列とは言え、パワーはそこそこある。羽月がいそうな場所ではなく、いなさそうな場所。この項目が出ると、ぼくは並列を直列にし、その項目だけに考えを絞ることにした。
「考えことかな、司人くん」
「まぁ、そんなもんだけどね」
…………。
「それにしてもこんな場所があったんだね、意外だよ、わたし」
…………………。
とりあえず、訊くだけ訊いてみよう。
「マリアちゃん、えーと、いつからそこに」
「街で司人くんを見かけてからずーっと尾行してたよ」
「そうですか」
「そうだよ」
普段なら気付いただろうに、よほどぼくは羽月に思考、察知する部分を費やしていたのだろう。反省と同時に、暇人なんだなぁ、と思った。尾行なんて真似は探偵の仕事と言うのに、自らが行うとは、もしかしてマリアちゃんは探偵志望なのだろうか。きっとその容姿からして、「発見! 美人探偵」 といった街の名物になるに違いない。近い将来、経済に貢献するだろうと思われるマリアちゃんと知り合っておいて損はない。ぼくも健康な一般男子高校生なので、まあ、そこらへんはおいおい。
「ここにはよく来るの?」
ぼくの考えが一瞬で断ち切られた。妄想はここらで終了らしいので、問いに訊ねることにする。
「まあね、一日一回は。好きなんだ、ここ」
正直に自分の意見を述べると、マリアちゃんは笑った。邪とか下心なんてひとつもない、綺麗な笑顔だった。ぼくは一秒ほどそれを凝視して、さて、と呟く。これからどうするべきか、と再び直列を並列にした。「そろそろ帰らないと、時間が時間じゃないの?」 マリアちゃんを同行させるわけにもいかないので、ここは穏便に帰すことにした。「大丈夫だよ、今日はお母さんもお父さんもいないしね」 速攻でぼくの策は愚作になり、消滅の運命を背負わされることになった。「さいですか……」 さて、どうしましょう?
――――――――。
頭がチリチリする。指先が痛い。突然、ぼくを襲う異常。でもぼくは箇所を触ろうとはせず、変わらない姿勢のままだった。そう、それは、ぼくがほんの数時間前に肯定したもの。触覚も嗅覚も聴覚も視覚も味覚も、なんの働きも見せず、その感覚だけが働く。具体的にはどんなものかは判らないけど、とにかくぼくはそれだけをひしひしと感じていた。「司人くん?」 そんなぼくを怪訝そうに見るマリアちゃんに「大丈夫、なんでもない」 と羽月のように答える。
ここは、怖い。
初めてそんなことを考えた。通いつめた場所が未知の領域に化ける瞬間だった。それは自己を壊すには十分すぎる恐怖だ。隣にいる彼女は何も感じていないだろうけど、ぼくは脳髄を舌で舐められているような悪寒に覆われていた。真っ暗な場所と言うよりは、真っ白な場所に閉じ込められたと言った方がいい。圧倒的なほどに何もないのだ。
「――――いや」
怖いなら、どうしようか。首の皮一枚といったところでぼくは崩壊を免れたようだ。「マリアちゃん」 四の五の考えている暇はない。隣にいるマリアちゃんを呼んで、手を握った。大層驚き、赤くなった顔をして、マリアちゃんはその大きな目でぼくを見る。「ここは、夜になると危ないんだ。だからもう帰ろう」 昔からここにいるからこそ吐ける嘘。でも彼女には通じたようで、小さな声で「うん」と頷いてくれた。うまく事が運び、ぼくは内心で微笑んだ。でも、危ないというのは本当のことである。おそらくぼくだけが感じ取れる危険に違いない。
「ぼくはちょっとやり残したことがあるから、先に帰っててくれるかな?」
これも本当のことだ。マリアちゃんは渋るような顔をして、でも先ほどのように頷いてくれた。「ごめんね」 と短い謝罪をして、ぼくはマリアちゃんの背中を押す。「それじゃ、また明日」 「うん、またね、司人くん」
『奴』はマリアちゃんには手を出さないであろうことを、ぼくは理解していた。何故なら、『奴』が用があるのは、ぼくなのだから。
「もうちょっとでここに来るのかな……あいつは」
ぼくが感じたもの。背中に氷を数百個入れられる感覚。過去に感じた感覚。常世のものとはかけ離れすぎた、最上級の感覚。何が会ったのかは判らないけど、どうやらやる気満々のご様子。ならばぼくも全力で迎え撃たねばならない。
やがて、恐怖は、ぼくの前に立つ。
同時にぼくは驚きを得た。
「え――――」
暗闇に光る、二つの点。あとは黒で構成されている体。そうとしか形容できないいものがぼくの目の前にいる。言葉を失くし、立ち尽くす。でも、背中にある氷は消えてくれていなかった。『こいつだ』 ぼくの滅多に働かない直感がそう告げる。距離は、おおよそ三十メートルほど離れているけど、距離なんてものはおそらくなんの意味もない。あいつにとってはどんな距離も同じなのだ。―――まるで、元からこれを知っているような思考。でも、間違いはおそらくない。そして、そいつが『笑った』ような気がして。
黒は、ぼくの目の前にいた。