がたん。ごとん。がたっ。がらがら……。
 あー。
 やっちゃった、と思ったら、それはもう後の祭りということ。つまりは手遅れである。
 押入れに詰め込みすぎたために起きた雪崩はあたしの部屋の床をあますことなく埋めつくし、引越し作業の手間を存分に増やしてくれた。腑抜けた声を繰り返しながら、のそのそ片付けに入る。あーだのめんどくさいだの。自分でも、よくぞここまでとばかりな量に、ちょっとだけ圧倒される。
 とりあえずそのままダンボールに適当に詰め込むことは愚かな行いなので、まず大きいもの小さいもので分けることにした。手際がいいとは幼稚園時代から昨日まで勤めていたバイト先までの間に言われたことがないけど、自分なりに一生懸命、手を動かし続ける。
 まあ、こんなもんでいいか。一時間ほどで作業は終わり、あたしはまだ余裕のあるダンボール、空のダンボールを持ってくる。そして詰め込み作業に入った。
 自分でも時間経過を忘れるくらいに没頭していると自覚すると、作業を始めてから二時間が経っていた。もう外は茜色がかり始めている。午後の四時だ。
 一旦休憩するかな。立ち上がろうとして、ふと視界の隅に留まる残像に気をとられた。顔の位置をついついと戻して、あたしはそれを発見する。
 十年以上、暗い部屋の中で時の経過を見守っていたのだろうか。その、古びたクレヨンを手に取った。蓋を開くと、芯が全部真っ二つという大惨事。当時の使用者、つまりあたしは大事にこれを使っていなかったらしい。ぼんやりどころか風景すら浮かんでこない昔に思いを馳せていると、またもや視界の隅で自己主張をしているような物がいた。クレヨンを片手に持ったまま、それも拾い上げる。
 ……なに、これ?
 考えて、観察して、眺めて、また考えて。三十秒ほど繰り返したら、ようやく理解できた。画用紙にめいっぱい、力いっぱい描かれたもの。このクレヨンであたしが描いた絵だ。証拠にとして右下に黒のクレヨンで組と名前が書かれている。十年以上も前のものなのでやはり汚れがある。ただ、描いてすぐ押入れの仲間入りを果たしたのだろうか、見ることに支障はない。あまり汚れていないということだ。ただし、絵に触れたあたしの指は汚れる。十年越しで再会を果たしたものの感慨のひとつも沸かないなんて、自分でも少し嫌になる。いつからこうなってしまったんだろうと考えてみた。
 ―――いつからじゃなくて。あたしという個が成長した結果が、これなのだろう。前々から決定付けられてたということ。それで落ち着くことにした。考えても仕方がないし、もう取り戻せないし。
 いつまでも思い出せない思い出に浸ろうとしても無駄ということに気付いて、あたしは座り込んでダンボールへと立ち向かうことにする。でも、クレヨンと画用紙は、なぜか詰め込まないままで、部屋の隅にある。無言で夢中で五里霧中で没頭し続けた。
 ふと、脳裏をクレヨンと画用紙が風のように掠めた。振り返って寝転がると、部屋の隅に手が届くようになる。それで、あたしは再びクレヨンと画用紙を手に入れた。起き上がって、おもむろに裏返しにする。
 そこには、みらいのわたし、とあった。呆気にとられ、少々茫然自失。気を取り直して、黒のクレヨンで書かれたそれを黙読した。

 みらいのわたしは、きっとゆめをかなえてスチュワーデスさんになっているとおもいます。
 そしてせかいじゅうをとびまわって、いろんなひとたちとおはなしをしているとおもいます。
 えーご、をがくしゅうして、みんなからはくしゅをされたいです。
 ちゅーりっぷぐみ さとうみき

 裏面ぎりぎりまで書かれたその文章は、おそらく昔のあたしの精一杯の自己主張。黒いクレヨンが指を汚すけど、そんなことは気にすべきことじゃない。
 ………今、あたし、なにしてるんだろ。
 過去からの届け物は、けっこう強烈だ。無防備な鳩尾に空手免許皆伝の人が拳を突き立てるくらいに。
 幼稚園を出て、小学校を出て、中学校を出て、高校を出て、大学を出て。そして明日、あたしは「さとうみき」ではなくなる。スチュワーデスじゃない、ただの主婦になる。
 流された人生で、これからも流されるのだ。いや、流してもらう、が正しいのかもしれない。
 「えーご」すら、日常会話も怪しい程度でここまで来ている。世界中なんて、修学旅行の沖縄が限界。拍手は、中学校の文化祭で劇をやった時以来されたことはない。
 でも、別に後悔することは何もない。これもひとつの人生だろうし。
 とりあえずあたしはぼろぼろのクレヨン片手に立ち上がり、壁の前に立つ。さて、何を残そうか?