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☆シンガポールと日本の関係について
 日本人がアジアに旅行する時は、老人であれ、若者であれ、日本の過去を背にして出ることになる。
謙虚な気持ちで出て欲しい。
「許すけれど、忘れない」と言う言葉は当地で何回か耳にした。重い言葉だと思う。
 日本にいると日本の傷跡ばかり目につく。しかし、傷ついたのは日本人ばかりではなかった。
加害国で生まれ育った「日本人」として、歴史的事実は知っておく必要があるのではないかと思う。
 現在、日本国内やアジアの国々から厳しい批判を受けている社会科教科書は、
従来から若い世代の事を考えて、正しい東南アジア観を持たせようとするのではなく、
逆に「皇軍」が東南アジアを侵略し占領した史実を軽くあっさりと描写しようと努め、
できることなら、それを覆い隠そうと心がけてきたのである。
 日本がもし、東南アジアを蔑視する思想を捨てず、教科書の中で日本軍が、
東南アジアを侵略したことに関して、公正で客観的な記述をしないなら、
日本と東南アジアの真の友好関係は決してうち立てられないだろう。

☆日本軍による侵略
 日本軍による最初のシンガポール空爆は1941年12月8日早朝3時半に行われた。
これは日本軍がコタバルへの上陸を果たした1時間15分後、真珠湾攻撃の2時間19分前である。
それから1942年2月15日から3年半の日本軍占領時代が始まる。
 シンガポール人の画家が昭南島時代の日本兵の姿を、生々しく、しかも皮肉たっぷりに描いた
「チョプスイ」(絵・劉抗/訳・解説 中原道子/めこん刊)という本の解説に占領直後の白人たちと、
それを見つめるシンガポール人の姿が記されている。
 日本軍がシンガポール市内に入り、占領を完了したのは2月16日であった。
その翌日、連合国側の白人は女性も子供もパダンに集められ、尋問を受けた。
軍関係者は、そこからスラランの兵舎まで22キロの道を行進させられた。
2300人の民間人はカトンに集められ、2週間後には更にチャンギ監獄へ送られた。
(奇しくも現在チャンギ監獄のすぐ近くに日本人学校小学部がある)
昨日まで植民地に君臨していた白人は今や戦闘と空腹に疲れ果て、華人、インド人、マレー人等
住民の見守る中、日本兵に追い立てられながらチャンギ監獄への長い道程を歩いたのである。
その光景は、植民地支配の中に生きてきた人々の心に忘れ難い記憶としてきざみつけられた。

☆シンガポールでの華僑大虐殺
 シンガポールの中学の教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)の中で
次の様に記されている。
 「日本人は、シンガポールにいる中国人が日本と戦う中国を援助するために金を送っていたことを知っていた。
日本人はまた、中国の義勇軍が、日本人に対して猛烈に戦ったことも知っていた。
彼らに敵対した中国人を排除しようとして、日本人はシンガポールにいる中国人を処罰した。(中略)
日本軍は敵対行為をした中国人を見つけ出す為「検証」するより他に適当な方法がなかった。
何千人もの中国人は、トラックで連れて行かれた。そこで彼らは射殺された。
死ななかった者は銃剣(銃の先に短刀が固定してあるもの)で死ぬまで刺された。」
(一光社刊「外国の教科書の中の日本と日本人」より引用)
 当時栄国領マラヤの華僑達は、中国政府支援のための抗日救国会を組織していた。
そのため日本軍はシンガポールでも華僑による反日運動が昂まるのではないかと考え、
反日かどうかの判断を目的に、何十万という華僑を集め、言葉も通じない憲兵が
かなりいい加減に反日分子の摘発を行ったのだと言う。
そしてこの時虐殺された華僑の数は日本の公式データによると6000人の死者とあるが、
確定できないながらも数万人と言われている。

☆戦争記念碑
 セントーサ島のロウ人形館は戦争記念碑的存在である。
正式には「シンガポールの開拓者と降伏の館」と呼ばれる博物館である。
 ここにはシンガポールへの白人入植から戦後シンガポール独立までの様子を順に
精巧なロウ人形と写真パネルで展示してある。
特に日本軍による侵略、昭南島時代、連合軍による開放といった展示が充実していることで知られている。

☆結局は
 戦争をしていたのは日本と連合軍である。戦争によって犠牲になったのは日本軍や連合軍ばかりではない。
何の罪もない東南アジアの住民たちが尊い命を失ったのである。

☆戦後のシンガポール
 1959年に宗主国イギリスから自治権を獲得したシンガポールは、
リー・クワン・ユー首相の下で工業化政策を打ち出し島内の開発に着手し始めたが、
その造成工事の中で、62年1月イーストコーストのシグラップという所で大量の白骨が掘り出された。
言うまでもなく、これらの骨は日本軍に虐殺された華人の遺骨で、当地の新聞は連日の様に、
この「白骨事件」を現場写真入で報道し、中華総商会を中心とした対日賠償要求運動が巻き起こった。
 これに対して日本政府はおざなりの対応しかせず、誠意のあるところを示さなかったため、
華人の怒りは頂点に達した。賠償要求という言葉にかわって「血債」という文句が登場し、
補償要求額として「5千万マラヤj」が正式に表明された。
 結局、血債補償要求運動の渦中で、生命の危険を感じた在留日本人(当時約500名)による
必死の陳情などで ことの重大さをようやく認識した日本政府が66年10月に椎名外相を派遣して、
シンガポール政府との間で、日本が2500万マラヤjの無償供与と、
同じく2500万jの低金利借款を行う事を決め、大もめにもめた「血債問題はついに決着した。
 翌67年には中華総商会が中心になって、血債運動のなかで集められた寄付金をもとに、
日本占領時代の受難者の記念碑(高さ120M)が建てられ、遺骨の一部を納めた、この白い慰霊塔の前で
毎年2月15日に、中華総商会主催による戦没者慰霊祭が行われる。


    

この内容はシンガポール日本人会図書館の中の数冊の本を自分の勉強の為に書き写しておいた物です。
反日感情は香港でもシンガポールでも自ら体験しましたので広く知って頂きたい事実だと思ってここに載せました。
最初の目的が自分の勉強のためだったので本の名前、著者名を控えておくのを忘れました。
自分の利益のためではないので著者様お許しください。
本の名前、著者様のお名前などをご存知の方がいらっしゃいましたらご連絡ください。