宗吾霊堂のページ
このページは、惣五郎ゆかりの場所「宗吾霊堂」と、
宗吾霊堂にまつわる場所を紹介するページです。
1.宗吾霊堂
宗吾霊堂は、正式名称を鳴鐘山東勝寺といい、蝦夷征伐で有名な
坂之上田村麻呂が、房総を平定した際に、
戦没者供養のために建てたお寺です。
その際建てられたお寺は焼失しています。
宗吾霊堂には、いくつかの建物があり、
惣五郎の生涯を等身大の人形でえがく「宗吾一代記館」や
惣五郎一家の遺品などを納めた「雪宝殿」などの建物があります。
また、「惣五郎一代記館」には、
実際に使用されたと思われる直訴状が展示されています。
2.惣五郎にまつわる場所
(1)甚兵衛渡し
千葉交通のバスに、成田山門前・京成電鉄成田駅を
発着するバスがあります。
このバスの終点は、「甚兵衛渡し」です。
なぜこのような名前がついたのでしょうか・・・。
もともと、この「甚兵衛渡し」とは、
成田市北須賀から印旛村吉高間の
印幡沼を渡る渡し舟のことでしたが、
昭和43年に廃止され、甚兵衛大橋にその役目を譲っています。
しかし、「甚兵衛渡し」という名前がバス停の名前として
残っているにはある理由があります。
この「甚兵衛渡し」という渡し舟は、佐倉惣五郎が、
将軍に直訴するため、江戸に向かうのを手助けした渡し舟のことです。
これには、次のようなエピソードがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
名主惣五郎が農民を救うため当時重罪である「直訴」をするために
雪の降りしきる夜、江戸に向かう際、
対岸の吉高の渡し守甚兵衛が
禁制の鎖を切って惣五郎を江戸に向かわせた後、
「このまま捕われの身になって生きるよりは」と言う思いの結果、
寒い夜の印幡沼に身を投じた。
それ以降この渡し舟のことを「甚兵衛渡し」と
呼ぶようになったといわれている。
一方、江戸へ向かった惣五郎は4代将軍綱吉公に直訴、
願いは聞き入れられたものの、4人の子供と共に処刑され、
宗吾霊堂に葬られている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
現在、「甚兵衛渡し」バス停周辺には、
この名前の由来を書いた石碑などがあります。
(2)宗吾街道
宗吾霊堂から甚兵衛渡しまでの宗吾街道(国道464号)は、
この物語から直訴道と呼ばれています。
義民・佐倉惣五郎物語へ(準備中)