2006年2月


中国で初めてぼられた記憶(2006年2月4日)

私が留学生として初めて中国に訪れたのは1992年の9月、留学の手配を頼んだ業者が小さかったこともあり、たった一人での日本出国であった。二度目の中国とはいえツアコンもいない訪中はやはりかなり不安でしたね。今思い出してもあのドキドキ感は忘れられません。中国語も一ヶ月ほど講習に参加したとはいえ会話できるほどのレベルではないことは私自身がよくわかっていましたし・・・。で、その当日、友人に見送られながら成田を出発した私は夜7時くらいであったか・・・すでに陽が暮れ始めている時間帯での北京到着でした。

業者「北京に到着後はご自身で北京語言学院までタクシーを使って行ってください」

出発する前に電話越しに言われたこの一言、外国でタクシーなんぞ使ったことの無い私にとっては神に見放されたかのような一言だったことを覚えてます。

「どうしよう・・・どうしよう」

心に焦りのある私にはベルトコンベアーに乗って出てくる荷物がやけに遅く感じたものです。

不安の極地にある私の周りにはやはり留学目的であろう日本人がちらほら見える・・・が、彼らは自分の荷物を見つけるとさっさとゲートをくぐって行ってしまう。思い切って話しかけてみるも一言二言言葉を交わすだけで、さよならぁ〜状態。周りからは当時の私はどのように見えたのだろうか・・・おそらく焦点の定まらない怯えた眼をした若造に見えたに違いない(^^;)

そんな時、私に声をかけてくれたのが一人の日本人女性。

女性「あの〜、留学される方ですか?もしよろしかったら途中までご一緒しませんか?」

天の助けだ〜!と感激でしたが続いた言葉で再び現実に引き戻される。

女性「私、初めての北京なのですが地理もよくわからなくし、二人でタクシーに乗れば安いじゃないですか!」

嘉翡「え?初めてなんですか?実は私もなんです。いや〜初めての海外はお互い不安だらけですね」

女性「そうですね。で、どちらの大学ですか?私は北京師範学院(だったかな?)です」

嘉翡「・・・・学校違いますね、そういえばあちらの方が師範学院とか言っていましたよ」

こうして道連れを失った私は一人タクシーに乗って語言学院に向かうことになったのです。
しかし、人民元の無い私はまず換金すべく空港内の銀行へ・・・、しかしそこは込んでいる上に進みも遅い。困っているところに現れたのが二人のタクシー運転手。片言の日本語でタクシーに乗れと迫ってくる。私の服を引っ張り、スーツケースを奪おうとするかのようにかなり強引にだ。断ろうにもその語学力もパワーも無い。しかたなく語言学院まで乗せていただくことになった。しかし人民元が無い私は銀行に行かせて欲しいとアピールするも日本円でいいからと却下。そのままタクシーへと連れ込まれてしまいました。そしてその時がおとずれたのでした。
タクシーの運転手が私に提示した金額は語言学院まで1万5000円!今なら笑って「ふざけるな」の一言が出ますが、当時のてんぱっている私はこう考えました。

〜きっとふっかけられているのだろう、少し値切ろう〜

で、つたない中国語での初めての交渉。値切りは見事成功!!

15000円→12000円

当時の私としては、よかった〜という安堵感もありましたが、それでも留学初日でいきなり1万円の出費はきついなぁ・・・という思いもありました。相場をご存知な方からすればお分かりですがこの時点ですでにぼられています。当時の相場を詳しく覚えてはいませんが高くても5000円も払えば空港から語言学院まで行けたはずです(もしかしたらおつりが出たかも)。

まぁ、いい勉強をしたと思えば・・・・ね(^_^:)

で、タクシーはというとのんびりと走っていました。今では空港から都心までは高速道路がありますが当時はまだ建設中でその脇の一応舗装されている道路を走っていました。時折すれ違う馬車が中国に来たことを実感させてくれます。しかし、ろくに街灯も無かった当時、たった一人で見知らぬ二人の中国人の乗るタクシーに乗るのはかなり不安でした。なにせ手持ちのポシェットには現金80万円が入っていましたから。不安ながらも運転手らと会話をしつつ日本の飴等を与えながらまるで媚を売っているかのような状態の当時の私。どっちが客だよ!?今の私から見れば突っ込みたくなりますね。で、タクシーはなぜか途中で舗装した道路をはずれガタガタの道路を走り始めました。

「・・・おいおい、大丈夫かよ・・・大丈夫だよね・・・大丈夫・・・でしょ?」

こんな心細い状態で車が急停止!周りを見ればうっそうとした草木が茂っています。すると運転手が何かを私に訴えていますが当然分かりません。もう一人の中国人は外に出てきました。

「やばい?ねぇ、やばい?身包み剥がされる??」

そう思っているうちにボンネットが開き運転手が何かを調べている。

暫くして走り始めたタクシーであったが再び停車、バケツを持って一人がそばの草むらへ、そこは小さな小川が流れていました。そして汲み上げた水を再び開けたボンネットの中のタンクに注ぎ始めます。ここでようやく安心したのです。ラジエーターの水が無くなったのかと。しかし注いだ水が漏れているらしく語言学院に着くまでの間、4,5回は停車して注水していました。

結局、私が語言学院に到着したのは夜10時を回ってのこと。宿舎前まで運んでもらい荷物を部屋まで運んでもらうことまでしていただき感謝をした私でしたが、払った金額の大きさ、途中で起きた面倒を考えたら後々むかっ腹が立ったのは言うまでも無い。この夜、人民元も持っていない私は食事もとる事ができず水も飲むことも適わないまま語言学院の西塔楼14階で眠りに着いたのでした。

後日、他の留学生は迎えのバスがあった事、タクシーに払った金額が大きすぎた事を聞いて
一人悔しがる私の姿があったのでした。




偽札の思い出(2006年2月27日)

最近では北朝鮮の偽札製造が問題にされています。スーパーK等と呼ばれかなり精巧な造りだといわれています。

かたや南の兄弟国家では新しい5000ウォン札の製作過程で100枚を印刷すると8〜9枚は不良が出ることが判明され、
廃棄処分されたことが確認されたとのこと。
http://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=1&ai_id=54708

この際、韓国は自国の貨幣製造を、北の兄弟国家にお願いすればいいのに・・・。
偽物を作らすと精巧で、本物を作らすとダメダメだっていうのが変に面白い民族です。


 さて、偽札といえば中国も例外ではありません。中国滞在中、何度もつかまされました。当時は中国人民元の偽札は南方からの経路で流入しているという噂でしたが資金洗浄しても100元が最高紙幣では利益も低いだろうからわざわざ物価の高い南方で本当に作られたのかはよくわかりません。

 私自身偽札を見分ける研究もしなかったし、自国の貨幣ではなかったこともあり安易に銀行以外でも換金したことが偽札らしき紙幣ををつかまされた原因でもあったと思いますが、慣れた頃には偽札と疑われてつき返された紙幣をどうやって使いまわしていくかに神経を使いました。貧乏学生にとって偽造紙幣のメインである100元札や50元札が使えなくなることはかなりの痛手ですから・・・(^_^;)中国に留学された方々なら一度や二度は必ずやっていることでしょうが疑わしい紙幣を使いまわすには・・・夜間に使用する、特に停電した街中では有効だし
(河南省は田舎だったから)、外国人であることをさりげなくアピールするのも良かった。回転率の早い、込み合った売り場での使用も疑われることは少なかった。逆にちょっとしたデパートや収銀台(支払いカウンター)のある店なんかでは紙幣は一枚一枚機械でチェックを入れられるのでつき返されることも多々ありましたが・・・。

 そんな私が初めて偽札に触れたのが92年の北京。語言学院そばの商店でした。出した50元札が機械で偽札と断定され、なぜか店員が騒ぎ出して数人集まり、そのまま何の手続きもしないで没収されてしまったのでした。後にも先にも紙幣を持ち去られたのはこの時だけでした。

以上偽札の思い出でした。