2004年5月

  とうとう機械オンチの私が(備えつきのソフトのおかげで)HPを立ち上げるまでになってしまった。ようやく私も現代
人の仲間入りと相成ったわけである(喜)。漫遊録(旅行記)や武術録と違ってここにはこれといったカテゴリーは無
い。それ故に「雑記」である。よってここでは中国滞在中に体験した出来事や思った事を少しずつ(不定期に)上げて
いこうと思っています。

   
▲ 自己責任と覚悟 ▼ 2004年05月12日 
  いきなり初回からヘビーなネタになってしまいました。当然ですが先頃日本を騒がせたイラク・人質問題で世に問
われた言葉です。何故これが私と関係あるのか・・・?この言葉で中国滞在時の自分を思い出してしまったのです
ね。
 
  世の親御は自分の子供が海外に行くとなると心配するものです。我が家もそうでした。私の留学が決まってから終
わるまでの間、心配していてくれたことは事実です。しかし我が家の父母はそれぞれ私にかける言葉が違いました。
用心深い父には「国が国だけに政治的な活動には首を突っ込むな、またそういう話を人前でするな。揉め事には決
してかかわるな。定期的な連絡をするように」等、自己安全のためのアドバイスを留学期間中ひたすら言われ続け
た。
  逆に母はいつもこう言ってました。「好きで行くんだから、当地で何かあっても、例え死んでもお母さんは骨は拾い
に行くけど泣かないよ。好きなことやって死ねるんだからね。本望でしょう・・・」実に対照的だった。
  ちなみに留学のために旅立った後、一ヶ月半もの間、電話一本手紙一通家に入れなかった私は家族の心配をよ
そに留学を楽しんでいました。どこに連絡を取ればいいかわからない我が家では父と母が対立していたらしい。心
配する父と「連絡が無いのは無事な証拠」とそっけない母の仲が悪かったと知ったのは一時帰国をした時でした。親
不孝をしたものです。今では笑い話ですが(笑)

  さて、私はというと、後に留学先を洛陽に移してから憧れであった「黄河」が近くにあることから母や友人に「もし俺
が死んだら遺灰は半分を黄河に流し、残りを日本へもって帰ってくれ」と語っていた記憶がある。友人は「ならそこら
辺のどぶ川に流してやるよ。どうせこの辺の川は遅かれ早かれ黄河に流れ着くだろ?!」なんて失礼な事を言いな
がら笑っていたが、当の本人は結構マジだったりしたものです。ただ肝心な「死の覚悟」自体ができていませんでし
たけど・・・(苦笑)。
  洛陽に移ってからというもの私の中国での活動範囲はとかく広がりました。それに伴い各地で不測の事態にあっ
たり、旅の途中で交通事故や中国人の死体を見たり、と自身の安全に眼が向くようになり始めていた頃、洛陽で日
本語を教えていたご年配のI先生に聞かれました。

 
  I先生「嘉飛さんはよく遠出をするようですが遺書は書きましたか?」
  
  嘉飛「遺書ですか?何故ですか?やはり家族に残すためのものでしょうか?」

 I先生「いや、そうではなくて。中国では本人の遺書に、不測の事態があって自分が死んだ場合中国で火葬するよう
意思表示がないと、遺体のままで日本に空輸することになりますよ。そうなると航空料金も跳ね上がるし家族への負
担も増えるでしょう?死んだ後まで家族に迷惑をかけるのは不本意でしょう。私はいつも準備してありますよ」

  嘉飛「・・・なるほど。考えておきます」
(このI先生はユーモアあふれる先生で、よく本当のような冗談で私をからかっていたのでこの「火葬」に関する話が
本当かどうかはわかりません。)
その後、暫らく遺書の事は頭にありましたが実際に作成することはありませんでしたが、
後年、ある旅路に着くとき部屋に「遺書」を残して出立したことはありました。この旅は結構な距離を走行するもので
したから交通事故死や強盗に襲われて死ぬこともありうる、と腹をくくっての決断でした。

  今こうして日本で当時をふり帰ってみると随分無理な旅もしてきたなぁ、と思う。勇気というより無謀のなせる業です
か・・・。それでも「遺書」を製作したということはそれなりに自分の中で海外に生きるものとしての責任と覚悟が芽生
えていたからでしょうか・・・?
そういうわけで今回のイラク・人質事件で問われた自己責任と覚悟は留学当時の自分を思い出すきっかけとなった
わけです。

  ちなみに、日本に帰国して久しい現在の私はといいますと、平和ボケ社会に包まれて覚悟の無い見事なまでの「貪
生怕死」的小市民となっております(泣)。

 注:貪生怕死とは命を惜しみ、死を恐れること



 
初めての冒険2004年05月21日
  中国に留学している間、危険な目にあったことがある人はどれくらいいるだろうか・・・。私も中国生活が長かった
ので何度かそういう思いをしたことがある。
  
  いざ!天壇公園へ
92年の10月中頃であったか・・・、まともに中国語を話せないけども好奇心いっぱいであった私嘉飛はなんとしても
朝の天壇公園で伝統武術を見てみたい、という衝動に駆られた!しかし留学先の北京語言学院(現・語言文化大
学)は北京市内の西北に位置し、天壇公園まではかなりの時間がかかる。朝早く出発しないと・・・・。そして仲間3人
で出発したこの計画は語言学院の門が閉まっていて外に出られなかったことが原因で学院外に出ることができず、
また乗るバスの時間帯とも折りが合わないまま「もう今から行っても間に合わないだろ・・・」とすぐ中止になった。

その日の夜、朝の天壇公園への未練を捨てきれない私は考えた。朝早いからタクシーが捕まらないかもしれない
し、値段も張るだろう。よし!思い切って自転車で行こう・・・と。
                     
  自転車
  私の愛車・嘉飛号(たった今命名)は買ったその日にペダルがはずれ、1ヶ月もしないうちに盗まれたけども、翌日
には探し出して戻ってきた中国産マウンテンバイクもどき・・・という、いわくつき自転車だ。背が高めの私としては車
体が低くて小さいこの嘉飛号はあまり乗り心地の良い自転車ではなかったが、まさに私の足となり数ヶ月の間活躍
してくれた。その後、盗まれてしまい二度とは帰ってこなかったが・・・(泣)。

 出発
  さて、出発は武術大好きな仲間を誘っての企画だったが、何時間かかるかわからない自転車での天壇公園への
道のり・・・そして朝が早いといわれる民間武術家の練習・・・どう見積もっても出発は夜中となる。仲間は結局あきら
めてしまったために私はたった一人で出発することとなった。時間は夜中の1時!学生寮を出て東門に行ったが当
然閉門しており、南門まで回ってようやく学校の外に出たときすでに30分も経過していたのだった。 続く



初めての冒険・22004年05月23日
天壇公園への道のり
  学院路を南に下り始めると後は西土城路―西直門―阜成門―復興門とただひたすら嘉飛号をこぎ続けた。オレ
ンジ色に光る街灯の下をただひたすら走る。時々夜間の道路清掃が行われているのを目にする。清掃車で水を撒
き散らしながらブラッシングするものと清掃員のジャケットを着た人が箒で道路を掃くものがあるようだ。街中は夜中
だけあって人通りも少なく、走る車も僅かだ。結構走ったつもりでも大して進んでおらず、何度も地図を見直して現在
位置を確認した。ひたすら直進するだけなのでかえって厄介だ。ときおり頭を掠める「帰ろうかな・・・」という思いをか
き消しながらの走行は結構きつかったのを覚えている。

 
真夜中の天安門
  途中復興門を東に回り天安門へ向かった。夜中の天安門はどんなものだろう・・・と興味が湧いたからだ。ほとんど
車が通らない長安街を進んでいくと天安門が見えてきた。毛沢東の巨大な顔を見て広場を見渡すといつもは賑やか
な広場もほとんど人がいない。そんなのんびりと広場を見渡す私に声をかけてきた人がいた。公安もしくは軍人だ。
これに関しては記憶が曖昧だが制服が深緑っぽかったのを覚えているから警備の軍人だったのかぁ?こんな夜中
に自転車に乗って天安門前にいることが不自然に思えたのだろうか、私に向かって何かを注意しているようであっ
たがまったく聞き取れない。向こうもこちらが理解できていないと思ったのか、相手にしたくなかったのか手を振りな
がら「行け行け」と追い立てるようだったので仕方なく直進した後、長安街を渡り再び天安門前に取って返して天安
門広場を右手に見ながら前門へ向かった。前門までくれば天壇公園まではまっすぐ南進するだけだ。しかし中国の
大通りは渡るのが面倒だ。柵で仕切られているから自由に渡れない。私も当時どうやって渡ったのか記憶に無いが
一度自転車を担ぎ上げて柵を越えた記憶があるが果たしてどこだったか・・・。
   
ようやく
  この前門大街も思ったより長い。なかなか天壇公園が見えてこないのだ。暫らく走って天壇公園を囲む壁らしきも
のが見えた。ほっとした私は時計を見るとなんとまだ3時半過ぎ、出発して2時間あまりで着いたことになる。予定よ
り1時間早かった。少々腹が減った私は近くの屋台で食事を取ることにした。店先に並べられた薄い餅と野菜炒め
が美味しそうだったので巻餅(要するに野菜炒め巻きクレープ)であろうと期待して注文したら目の前でいきなり餅を
切り刻まれてしまった・・・期待と共に。出来上がった野菜炒めは餅のせいで量がかさみ、旨みの無いただ辛いだけ
の野菜炒めであった。中国語が話せない私を見て早くから「外国人だね!?」とうれしげに私を接待してくれた屋台
のおばさんはゆっくりと「味・道・好・不・好?」と聞いてくる。不味いとも言えない私は「好!」と作り笑顔で親指を立て
てみせる(泣)おばさんはうれしそうにうなずく。「どうしよう・・・食えないよ」おばさんが日本語を聞き取れないのを知
っている私は小声で呟いた。大食漢である私は当時とにかく量を食べる人間だった。当時ハンバーガーなら一回で
10個食べたこともあるくらいだし・・・。しかし、そんな私もこの炒め物には苦労した。だって不味いんだもの・・・。心
で涙を流しながら食べ続けた私は何とかこれを平らげ熱い視線を送るおばさんにお礼を言うと天壇公園の入り口を
探して再びさ迷い始めた。 続く



初めての冒険・32004年05月24日

初めてのピンチ
暫らくキョロキョロしながら南に進むと公園のほうへ向かう薄暗い路地を発見した。夜中だから暗いのは当たり前な
のだが街灯が無い細い道だし、本当に入り口にたどり着けるか分からないけど覗いてみようと思い一度その場で自
転車を止め路地を覗いてみた。すると路地の暗闇から黒いコートを着た背格好の大きい人物が現われた。すると別
の路地や家の影から黒っぽい背広を着た人物や革ジャンを着た人物など私に向かって走り寄って来る「え?なに?
僕何か悪い事した?」・・・深く考える暇もなく十数人の黒ずくめの男達に私は包囲されたのだ。はっきり言ってピン
チである。そのうちの一人が私に話しかける「@*+?●<%$◎#&#▼○」・・・何を言ってるかわからないよ〜、僕はただ
の学生だよ〜!焦りが頂点に差し掛かる。そして私の口から出た言葉が「我是日本留学生、想看天壇公園」すると
さっきとは別の人物が話しかける「堰・■%÷@○◇△×」はっきり言って何にも聞き取れない。しかし、なんとか私
は善良な外国人です、とアピールをするため聞き取ろうと努力する形を見せる。このやり取りを数回行い、持ってい
た学生証(パスポートだったかな?)を見せると暫らくしてこの招かざる団体はばらばらと散って行った。「ふぅ〜、助
かった」公園の入り口を聞くと南を指しながらもと来た場所へ帰っていく彼らは一体何者だったのだろうか?もしあの
団体が悪人であったなら今私はこの世にいないか、あのままどこかへ連れ込まれて金品を強奪されたかもしれない
から、僕を犯罪者と思って出てきた公安側の張り込みだったのかもしれない。もしあの場面を見て逃げた人物がい
たとしたら僕は犯罪者を逃がす手助けをしてしまったのだろうか・・・。
 
開かずの門
  この生まれて初めて味わう事件の後、私は再び元気に天壇公園の入り口を探し始めた。もう細い路地への探索
はこりごりだ。そのまま南へ南へと向かった。すると永定門街に出た。東へ向かえば天壇公園の南門である。「来た
来た来た来た〜」と喜び勇んでペダルを踏む。門へ向かう曲がり角に着いて前を見ると確かに門が!!時計を見れ
ば4時半だ。間に合ったー!武術家の朝に間に合ったー!!喜び勇んで門に向かう。そして眼にしたものは「午前6
時開門」・・・(゜д゜)はぁ?6時開門?じゃ、天壇公園の武術家の朝練って6時以降なの?「なんてこったー、やっち
まったー」思わず声に出した。暫らく呆然とした後、考え直した。「もしかしたら開いてる門もあるかもしれないじゃな
いか!」めげない私は嘉飛号にまたがると颯爽と天壇東路へ出て北上を開始、門があるところを探し回りあわよく
ば塀を乗り越えてやろう、と考えていたのだ。門が開かなきゃ人は入れないし、練習も何も無いであろう事すら考え
る思考を失い、公園に入ることが自体が目的となっていたのだ。そんな私の考えを阻むように天壇公園の壁は高か
った。結局北門まで来てしまった私はようやく入れないことを悟り、約一時間北門の外でふらふらと歩きまわることに
なった。
 武術家?
  夜も白み始め行き交う人の量も増えてきた頃、目の前を一人の中年男性が手足を動かしながら歩いている。お
や?信号で止まったところで近づくと拳を握りぶんぶんと振り回している。通背拳かな?と思い声をかけようかと思っ
たが周りの人を近づけさせないようなオーラを放っていたのでできなかった(っていうか単に怖かったんだけどね)。
しかし向かう先は天壇公園、後で会えることを考えその場はあきらめた。時間も6時になると天壇公園の門前は人
が随分集まっていた。「おお!この中にきっと武術家が!?」と期待に胸を膨らませつつ門をくぐる。「待て!!チケ
ットはどうした?」いきなり門番のおばさんに止められる・・・そうここは有料公園だったのだ。そういえば入る人みな
パスを持っている。出鼻をくじかれた私は仕方なくチケットを買って入園した(値段は忘れました) 。 続く・・・・続い
ていいのかな?



初めての冒険・42004年05月26日(最終話)

いざ!天壇公園
 公園に入ってみるとそこいらじゅうで健康体操が始まっている。みなそれぞれ自分の特定場所があるようで一目散
に目的の場所に向かうご老人もいる。僕も自転車で疲れた足腰を伸ばそうと木の下でストレッチをしているとおばさ
んが「そこどいて!私の場所なの」(多分そう言っている)と私を追い出す。仕方なくその場を離れるとおばさんはお
もむろに木の枝にぶら下がってゆさゆさ重たそうな身体をゆすっている・・・「木が可哀想だよ・・・」と言いたかった
が、面倒はごめんなので武術家探索へと再出発した。
「どこにいるのかなぁ・・・・」と眼を凝らすがなかなかそれらしき人物は見受けられない。先ほどの通背拳らしきおじさ
んも見当たらない。まだ時間はあるさ・・・と歩き続けていると「はーい、はーい、はーい」と男性の掛け声が聞こえ
る。「ほーい、ほーい、ほーい」と続く!武術家の練習時に出す発声か?!高鳴る鼓動を抑えつつ声の方角へ向か
う。「どこだ?ここか?いや、そこか?!」しかし、声の出ている場所に来ても武術家らしい人影は見えない。しかし、
その掛け声は付近から聞こえていることは間違い無いのだ。ふとそばを見ると後ろ向きに歩くおじさんがいる。歩き
慣れているせいか速度がありしっかりとした足並みだ。すると手を口元に挙げ「はーい、はーい、はーい」と叫ぶでは
ないか!間髪いれず別のおじさんが「はーい、はーい、はーい」と返す・・・。そう、あの掛け声は武術家ではなく普通
のおじさん達の掛け声だったのだ。(あとで知ったことだが、後ろ向きに歩いたり、大きい声をあげることは健康法の
一つであったらしいのだ)掛け声を武術家探しのポイントと定めて歩き回った私はがっくりとしてしまった。北門から
入って南門付近(結構な距離ですよ)まで来ていた私は疲れて凹んだことはいうまでも無い。
 もうあきらめよう・・・そう思って北門に来たときはすでに7時過ぎ、もうみんな帰宅してご飯食べて仕事だろう・・・そ
う思っていたら北門付近の木のそばで一人の60歳前くらいのおじさんが直径1M前後の円をくるくる回っているでは
ないか。かなりのスピードである!当時八卦掌を学んでいた私は「おお!八卦掌ではないか」とそのおじさんを見続
ける。動きが止まったら少しお話を・・・と思ったがなかなか止まらない。10分待っったけど依然回り続けている・・・
痺れを切らした私は思い切って話しかける。おじさんはそれでも回り続けそのまま私に視線を向ける。なにをどう話
しかけたのか・・・今では思い出せないがおじさんはそのまま回り続け少し私に手法を見せた後、再びわき目もふら
ず回り続けた。「練習の邪魔をしてしまったなぁ」と思い、練習を終えてから今一度話を聞こうと一時その場を離れた
が、戻ってきたときにはおじさんがその場にはいなかったことは言うまでもない。今から考えてみればろくに会話もで
きないくせに・・・と赤面の思いだ。結局、それ以外に武術家らしい人影を見ることができなかった私はがっかりした
まま天壇公園を去ったのである。
 
帰り道
 さて、問題は帰り道だ。期待に胸を膨らませながらの往路はつらくてもがんばってこれたが、がっかりした復路は
つらかった。力も出ないし、北風が強くなってきたからだ。吹き付ける北風に向かうように進まなくてはいけない帰り
道・・・いっそ自転車を載せてタクシーで帰ろうか・・・と何度も考えました。でもせっかくだから・・・とそのまま琉璃場に
足を伸ばし骨董品や美術品を少しばかり眺めて(開いている店が少なかったから見れるもの自体が少なかったが)
前門西大街に出た。そして再びせっかくだから・・・と王府井に向かった。目的は麦当労(マクドナルド)である。つい
3、4年前年前だったか・・・、麦当労が北京市内で目標100店舗を掲げていた記憶がある。そこいらじゅうに麦当労
はあったわけであるが、92年当時は麦当労の数は全然少なく(記憶では北京ではまだこの一店舗だけだった気
が・・・)私は王府井の店舗しか知らなかったくらいである。ついた時間は確か麦当労の開門前だった。当時、麦当労
が何時に営業を開始したかは忘れてしまったが9時前だったはずだ。北京飯店の裏にある駐輪所に自転車を止め
て麦当労が開くまでの時間を王府井を散策して過ごした。当時はまだ新華書店やら百貨大楼やらがあり大小さまざ
まなお店があった!今では見る影も無いですが・・・。麦当労開門と同時に店に入った私は3,4個を注文して平らげ
ると更にお持ち帰りを注文して再び帰路に着いた。当時、油っぽい中華料理や学院の食堂に嫌気がさしていた私は
この麦当労で随分お世話になった。今では中国でも拉(土+及)食品=ジャンクフードといわれてはいるが、当時の
私にとっては「文明の味」そのものであった・・・(泣)。その頃になると駐輪所では自転車の数が更に増え自分の自
転車を探すのも一苦労であったが、なんと!チェーンで鍵をしてあったのだがその鍵を無くしてしまっていたのだ。仕
方なく自転車を倒してチェーンをそこら辺に落ちていたレンガで壊して出発したのを覚えている。(首都の中心でレン
ガが落ちているというのが中国っぽいでしょ?)
  王府井を北上し、美術館前を左折して景山公園東街に出て再び北上、鐘楼、鼓楼を眺めた後、雍和宮まで東進
した。この道筋は記憶に無い。どこをどうやって進んだのだろうか・・・大通りは進まず、住宅街を右往左往しながら
進んだことだけは覚えている。どこかで孔子廟?を見た気がするのであるが・・・。雍和宮から安定門東大街を渡っ
た私はそのまま地壇公園へ・・・。公園内では何かお祝い事か何かされてるようであったがつまらなそうだったので
そのまま北上、安定門外大街、安定路と進んだ。

疲労の限界?
  ここまで来て嘉飛号に異変が起こった!私の太ももが疲弊しているのと同様に自転車自体にも異変が起こったの
だ。嘉飛号は車体が低いため太ももにもペダルにも負荷がかなりかかる。「よいしょっ」力強くペダルを踏むと「バキ
バキッ」と音を立ててペダルが割れたのだ。「あ?!・・・」暫らく呆然としました。そして「ふざけるなよ中国、自転車く
らいまともに作れよ!!」(自転車に限らず当時の留学生でそう思った人は多いはず)疲労困憊の私の口から中国
への怒りが飛び出す。実はこの頃、嘉飛号はペダルばかりかブレーキが利かず、スタンドが緩み、サドルが回り始
めていたのだ。「一日乗り回しただけでこれかよ・・・」乗り辛さが怒りへと変わる。片方のペダルはただの鉄棒に変
わってしまったが、私はぶつぶつ文句を言いながらも北四環路に出て奥林匹克体育中心と中華民族園(まだ確か
建設中だったような気が・・・)を横手に見ながらひたすら西進した。確か当時この北四環路は学院路まで通じていな
くて途中が工事中であった記憶がある。砂利道をひた走り学院路へ出た私はホッとした気分に浸りながらくたくたに
なって語言学院へ帰って行ったのであった。
   
  私の話を聞いたもともと一緒に行くはずだった仲間は「行かなくて良かった!」と笑っていたのが悔しかったが、く
たくたになっていた私は部屋に帰るとお持ち帰りの麦当労の漢堡(ハンバーガー)を食べて早々に就寝した・・・・は
ずである(記憶に無い)。

  翌日、痛んだ嘉飛号は自転車を買った五道口の商店でペダルとスタンドの交換、ブレーキの修理、サドルの再固
定をしてもらったのである。ちなみにペダルとスタンドは同じ自転車の部品ではなく別の自転車の部品をもって補わ
れました。ペダルはちょっとゆがんでいましたが、頑丈な作りでしたから長持ちしましたが・・・。
 
  結局、天壇公園探索は大きな成果もなかったわけであるが、今も私の中では記憶の断片が生きている。特に黒
ずくめの団体に囲まれたときは怖かった(当時この話を聞いて信じてくれない人もいたけど本当の事なんです)。あ
の場面でよく自分を日本人と名乗ったなぁ、と今更ながらに思う。結果オーライなわけだが・・・。私は中国滞在にお
いて何度か外国人、日本人と自ら名乗ることにおいて得をしたり、ピンチを乗り越えたりしたことがあったが、この事
件がその始まりであったのかもしれません(笑)・・・終了。


あとがき
  読んで頂いた方の中で、「ものすごい武術家との出会いがあったのでは?!」と思っていた方がいたら申し訳あり
ませんでした。おまけに大した落ちもなく・・・。
  この日一日で、40km近くは走ったという記憶がありましたが、現在北京の地図を持ってないのでなんともいえませ
ん。当時の留学生は私も含めて変わった人が多かったと記憶しています。自転車でのミニ旅行なら天津まで日帰り
で遊びに行った方もいた記憶があります。そんな中で僕の話なんか全然大した事なんか無いのでしょうが、まぁ記念
ということでアップさせていただきました。
  成功しなかった初めての武術家探索ではありましたが、この話はその後の私の武術探索へ繋がるプロローグであ
ったと思います。
  中国という巨大市場が動き出した今、中国への留学も随分様変わりしたと聞きます。現在、私のように中国伝統
の文化、特に武術に目を向けて活動する留学生はいるのでしょうか・・・。留学先を北京から田舎の河南へ移して
後、北京は見る度ごとにその形を変え、留学生の様相も随分変わったように見えました。現在、「私みたいな留学生
はもういないのかなぁ・・・」と考えると、たとえ異端視される世界であろうとちょっと寂しい気もします。(嘉飛)




▲花火の記憶▼2004年05月30日
  
漫遊録で爆竹花火の話題が上がったら思い出したのが語言学院の正月だ。92年当時、私は語言語学院の宿舎・
西塔楼に住んでいたのだ。ここはトイレもシャワーも共同の安い宿舎であるが、治安というか、秩序がいささか欠け
ている場所でもあった。
  12月31日の夜・・・同学(クラスメイト)のガオムーさんとユアンネイの部屋(8階)にお邪魔していた私はものすご
い光景を見たのだ。1月1日に日付が変わった途端、突如宿舎内で爆竹と花火が鳴り始めたのだ。

「おいおい・・・仮にも建造物の中だぞ?!」

噂にたがわぬ乱れようだ。そのうち廊下でも爆竹や花火が鳴り始める。

ドアを開けて廊下を覗こうとすると何処からともなくロケット花火が音を上げながら 
廊下を真横に走っている。

「ぬおおお!!」

ドアが開けられない(笑)

  花火をしているのは基本的に外国人留学生。中国人は爆竹花火で元旦はあまり祝いません。あくまで春節がメイ
ンですし、外国人宿舎には自由に出入りができませんから。一番まいったのが1階ロビーでの爆竹だ。音が響いて
耳が痛くなるほどだったものですから・・・。その年の春節は日本に帰国していた私は語言学院学生宿舎での春節は
見ることができなかったが、やっぱり激しかったのであろうか。

そういえば今の塔楼はどうなんだろう?さすがに塔内での花火は無くなったのだろうか?(終)