西北旅行<7>



  敦煌とお別れの朝、何も食べずに出発した。トイレの無いバスでの長時間の旅に満腹はある意味危険だ!運転
手は途中で停まるのを嫌がるし、停まっても下手に荷物を置いたままで下車すれば外国人の荷物欲しさに置いて行
かれかねない。荷物の面倒を見る相手のいない一人旅はそういう意味では不便である。

  さて、午前9時に出発したバスは前日に買ったチケットが席の番号付きであったために、敦煌へ来る時よりは快適
であった。しかし途中で客を拾ったりするものだから人数が増えて空気が悪かった。ただでさえ、埃が酷くて窓が開
けれない上にクーラーもかけないのだから。途中、安西にて昼食休憩を挟み酒泉に着いたときは午後4時。7時間
のバス移動であった。


  酒泉に着いた私は群がる客引きをかわして、暫らく歩いて街を散策した。これといって何の特徴も無い小さな街で
あった。本来、嘉峪関の街に直接宿泊したかったのだがどうもこちらは程よいホテルが無いという噂を聞いていたの
で酒泉を拠点としたのだ。

  地図を見ながらホテルを探す。目的は金泉賓館(だったかな?)CITSが入っているという話しだったので酒泉から
蘭州までのチケットを手に入れるつもりだったのだ。しかし・・・この金泉賓館は見つけ出したものの、あると聞いてい
たCITSは無かったのだ。とりあえずドミトリーにチェックインをする。案内された部屋には多くのベッドが・・・そして私
以外に3人の日本人旅行者がいた。この3人も酒泉からの移動手段を列車と考えていただけにCITSの不在には困
っていたので、翌日一緒に酒泉駅に行くことにした。実はこの頃、私は体調が芳しくなく身体が熱っぽかったのだ。
おかげで記憶が薄いのだがこの日は食事をした後、早々に就寝したような・・・気がする。

伝説では前漢の将軍霍去病がこの地にて匈奴征伐に勝利し、武帝から御酒を賜った。霍去病はその酒を泉に注ぎ
入れ、兵士たちとともに飲んだとか・・・。それがこの地が酒泉と呼ばれるようになった由縁であるとのこと。その酒泉
のシンボルである鼓楼。



翌朝、ドミトリーの日本人を連れて酒泉駅まで行った。しかしチケットは無し・・・一度ホテルに戻って近くの長距離バ
ス乗り場で翌日の深夜の蘭州行きバスを購入した。移動手段に困っていた二人の日本人も一緒である。その後、
私は単独で嘉峪関へと向かう。熱っぽいせいか、イマイチ気分が乗ってこなかったために写真の量が少ないし、
アングルもイマイチであった。
ここで一緒になった日本人と一緒に明代最西端の長城・嘉峪関に乗り込んだ!


映画の撮影でも時折使われる嘉峪関
初めて見たのはやはり「敦煌」
しかし一番印象に残っているのは「龍門客桟」(ドラゴン・イン)。
嘉峪関の内外で奔り回る騎馬軍はよかった!私が見たのは92年版の香港作!
主演はレオン・カーフェイ、ブリジット・リン、マギー・チャン、ドニー・イェンだったかな?

レンガと土塀だけってのがいい雰囲気!最近はどこの城も人の手が入りすぎてますからね。
いよっ、天下第一関!!


  
嘉峪関の脇では乗馬も楽しめる。ここの馬は中国の背の低い馬ではなくおそらくサラブレッド。
陽関で乗った馬とあまりに違う高さに少々ビビリながらの乗馬。随分観光地化が進んでいますが、
今はどうなっているんだろう・・・。


 嘉峪関からは何を思ったか徒歩で帰り始めた私。あの暑い中、舗装された道をひたすら歩いて嘉峪関の街中まで
行ってしまった。そう遠くは無かったのだが、私を横目にタクシーやバスで通り過ぎる人達は不思議そうに私を見て
いた。

 実は・・・行きに嘉峪関の街中から乗せてきてもらったタクシーの運転手が帰るときになって突然倍の値段を吹っ掛
けるものだからケンカ別れ。帰りは意地でも歩いて嘉峪関の街中に帰る・・・そういって歩いたのでした。はっきり言
って馬鹿でした身体の調子もよくないのに。嘉峪関の街中に入ってからもバス停を探してさ迷い歩き、結局タクシー
捕まえて酒泉まで帰ってきたのでした。タクシーが少なくて随分時間かかりました(^^;)



この日はドミトリーに新しいメンバーも加わり、市場に行って賑やかに夕食をとった。
中国に来て暫らく経つのに、羊肉串(シシカバ)を食べたことが無いという人に買ってあげたり、屋台で焼きそば頼ん
だり楽しかったです。私はともかくよくあんな不衛生な市場に連れて行って食べたものです。今なら日本人は連れて
行けません。中毒が怖くて・・・。

この日、ドミトリーに加わった日本人は現役の東大生!

全員「現役東大生初めて会ったよ。ナマは初めてだわ」

と始まった会話!またこの東大君、この旅で面白い体験をしてきていた。話を聞いた全員笑いの渦でした。私の中
では、列車を停めた日本人に迫るものを感じましたね。

 なんでも内蒙古で草原ツアーに参加してえらい目にあったとか・・・。馬に上手く乗れなくて走り出さない馬の腹を他
の客と一緒に蹴りまくっていたら、隣の日本の女の子が振り落とされ、挙句後ろ足で蹴られて吹っ飛んだために怖く
なって馬の腹を蹴ることができず、先に行った添乗員の迎えが来るまでその場を一歩も動けなかったとか、夕暮れ
時に大雨に降られ、本来無いはずの川に行く手を阻まれて遭難し、暗闇の中近くのパオ(ゲル)に駆け込みモンゴ
ル人の世話になって何とか生還できたとか・・・。随分危険な体験ではあっても話す人間によって笑えるものだなぁ、
とゲラゲラ笑いながらも感心してしまいました(^^)

  可哀想だったのが、そんな大変な経験をしたにもかかわらず、せっかく撮ったフィルム入りのカメラをバスの中で盗
られてしまったことだ。本人もカメラはくれてやるから思い出のフィルムは返せー・・・と嘆いていたっけ。おまけに
公安局に盗難届けを出しても盗難として扱ってもらえず紛失届けどまりだったとか。何処のバスでどのように盗られ
たかも分かっていたので盗難届けを出したのですが、決して盗難として受け付けてくれなかったとのこと。彼は盗難
届けを出したことさえ証明できれば帰国後保険が降りるから・・・と説明してもダメだったらしい。彼の考えでは外国
人の被害届けの数を増やしたくなかったからであろう、との事。そういえばなんかの旅行資料に毎年の地域ごとの
被害届件数が載っていた気がするなぁ。


というわけで、この日の晩も旅の話で楽しく過ごす事ができたのでした。



  翌朝・・・いよいよ体調が悪くなってきた。酒泉には観光地が少ないといっても夜光杯の工場とか、泉のある公園
とかあったのだが、熱を持ち始めた私はどうにも身体が動かずこの日は他の日本人が観光に行く中一人ベッドで寝
込んでいた。ドミトリーはただ広くてベッド以外には何も無い。薬を飲んで誰もいない中一人ポツーンと寝るだけの時
間は結構寂しかったものだ。TVでもあれば少しは違ったろうけど・・・。

午後6時半、ここで知り合ったG君、H君の二人と夜行バスで蘭州へと向かう。この二人は京都出身(だったか
な?)の幼馴染同士での初海外旅行と言うこともあり結構緊張していた。中国語ができないため思い通りの旅行が
できずに苦労していたらしい。前日もバスのチケットを一緒に手配したり羊肉串を食べさせたら喜んでたし・・・。G君
は結構私と打ち解けてくれたのですけどH君は話しかけてもあまり笑ってもくれなかった。何もしていないのですが嫌
われたのかなぁ、とこっそりG君に聞いてみるとH君人見知りするとの事。結構楽しんでるようだし、嫌ってるわけで
はないようですよ、といわれ少し安心(^-^;)

  さて、酒泉で乗った夜行バスは二段ベッドの寝台バス。ここ数年では寝台バスも良質なものも出て結構快適に旅
が出来るようになりましたが、この時の寝台バスはぎゅうぎゅうず詰めの寝るだけベッド。起き上がれもしないし座れ
もしない、事故ろうものなら待っているのは「圧死」あるのみ・・・暑さと狭苦しさの中で死ぬのはいやだぁぁぁ、と
つくづく感じた。陽も暮れ暗闇の中を走行するバスは時折休憩のために停車するのであるが外に出ると驚き。何に
も無い荒野は東西南北全てが夜空の天然のプラネタリウム。停車している数分間のうちに何度も流れ星を見ること
ができた。ちなみにこの数分間の停車は主にトイレタイムだったりするわけだが、面倒なのが女性のトイレ。こんな
荒野に当然ながらトイレなんかあるはずもなく、また草木一本生えていないのだ。トウモロコシでも作付けされていれ
ば隠れることもできるのでしょうが・・・。可哀想に数人の女性が随分遠くまで走って用を足しに行っていました。それ
にしても・・・荒野の夜って本当に真っ暗・・・・というか闇でした。


バスに戻れば窓を開けて空を見上げることもできない息苦しい空間・・・寝てしまおう、と思ってもなかなか寝れない。
そんな時、前方の席でがざわめき始める・・・そして

「アイヤー!アイヨー!?」

と数人の人民の声が聞こえる。様子からして驚きと困惑が混じったような感じだ。そして・・・

「ぐふっ、ごふっ・・・・おえぇぇ」

という男の声と共にビシャビシャと音が聞こえる。
やりやがった・・・私は何が起こったかを理解した。バスに搭乗してから散々飲み食いしていた人民が吐きやがった
のだ!それも二段ベッドの上段の人民が・・・。ベッドの位置が私は最後部であったので前方の吐いた人民のベッド
とは離れていたので被害は無かったが、バス内の空気ははっきり言って最悪だ。


ツーンと漂うあの香は・・・忘れねーぞ!長時間のバス旅行と分かっていながら
吐く程飲み食いするんじゃね〜よ〜!お前等は馬鹿か〜!こちとらバスに乗る前から
食事制限して体調整えてるのによぉ!気分台無しじゃないか!!
これは当時私が抱いた率直な感想である。

中国人は旅ともなると兎に角よく食べよく飲む。トイレなんかお構いなし。
ガキどもはバスも列車も小便垂れ流すし・・・。


  うとうとしながら寝たり起きたりを繰り返した後、いつの間にか夜が明けていた。時計を見れば既に8時、バスも都
市に入っていた。何処の町だろう・・・と街の様子を伺っているうちにバス停に到着。そこは目的地の蘭州だった。も
っと時間がかかると聞いていたので気分的には非常に楽になった。眠気が残る中も凝り固まった身体を伸ばしなが
ら我々3人はあたりを散策し始めた。3人の共通の考えは「これからどうしよう」というこうとだ。私は休み明けのこ
とがあるので一気に洛陽まで帰って身体を休めて再び北京へ、と思っていたがG君H君は西安に行く予定だという。
西安なら洛陽へ行く途中なのでそこまでは一緒に行きましょう、ということになった。私は一人でもどうとでもなるがこ
の二人はバス、列車のチケットも購入する方法がよくわからいようだったので、チケット購入の方法を教えるために
一緒にチケット売り場に並んだ。しかし、東へ行く列車の軟臥、硬臥チケットは全て無し・・・あるのは席無しチケット
ばかり。さすがに席無しは嫌だなぁ・・・と感じた私は二人に聞いてみた。

嘉飛「ちょっとチケット代多めに出せる?」

二人は大丈夫という返事をくれたので早速駅前の広場で作戦開始!目的はダフ屋である。当時、思いつきで行動
する私は事前に予約をとって行動することが少なかったのでダフ屋を常用していたのだ。ダフ屋らしき人に声を掛け
目的地と出発時間を確認しながら値段交渉。3人目のダフ屋でなんとか3人同じ列車の硬臥で出発することが決ま
った。2人は西安、私は洛陽である。残念ながら出発時間までは覚えていないが、午後出発だったはずだ。それま
で時間が余っている私達は蘭州を散策しようと行動を開始、荷物をホテルに預けることにした。

嘉飛「荷物を預けたいのですが・・・」
ボーイ「分かりました。では部屋番号を教えてください」

嘉飛「・・・部屋番号が必要なんですか?」
ボーイ「はい、決まりですから。また荷物にキーをしますので一人5元かかります」

嘉飛「・・・分かりました。今日ホテルをチェックアウトした者で部屋は○○○号でした」

 部屋番号は当然デタラメ、嘘も方便で交渉成立。荷物のファスナーに鍵を掛け荷物を預けると我々は街に出た。
時間的余裕があまり無い我々は無理をしないために遠出をせず蘭州の甘粛省博物館の見学に向かう。展示物も
多く、なかなか面白い博物館であった。ただ戦後50周年記念だとかで日本人には困った展示物も多かった。その
後、近くの店で蘭州特産蘭州牛肉麺を食べる。ピリリと辛くて美味しかった。時間のおかげで無理のできない我々
は街を散策しながら荷物を預けたホテルへ。荷物を引き出すとラウンジでゆっくりコーヒーを飲みながら時間を潰
す。大きなホテルだったので結構高級なお土産品が並べられていたので目の保養としました・・・買えないからね。

せっかく来た蘭州も大した観光をする事は無かったが我々3人は無事に硬臥で出発することができました。目的地
が違うために私と2人は車輌が別れることになった。時折気を使って2人の様子を見に行く。一見順調に見えたこの
列車の旅も数時間後待っていたかのように問題が発生したのでした!就寝してから間も無くG君が乗務員にベッド
の明け渡しを迫られているではないか!服務員とG君間に入って交渉をすると・・・

嘉飛「彼はきちんとチケットを持っているではないですか?なぜベッドを開けなければならないのですか?」

乗務員「このベッドは既に別の客が買ってしまっています」

嘉飛「何で確かめもしないで勝手に売るんだよ?」

乗務員「先程、チケットの交換に来たが返事が無かったので、客無しと判断されました」


 そう、G君は手持ちのチケットを車内チケットに変えないままだったので無座席と判断されて売り払われてしまった
のです(正直、ダフ屋から買ったチケットが偽物ではないかと心配しましたが・・・)。その後、私はきちんとチェックしなかった乗務
員の責任も問い詰めてそのミスも認めさせましたが売却済みのチケットはどうにもならなかった。2人は言葉も話せ
ないし別れ別れは困るので何とかして欲しい、と嘆願しなんとか毛布を通路に引いて寝ることを許されG君は異例に
も通路にて寝ることになったのでした。食い下がりベッドの確保を交渉する私を横にさわやかなG君「気にしてま
せんよ、これもいい思い出ですから・・・」とさっさと通路に毛布を敷いて寝る体勢。そのまま交渉も終了。

夜中、私も彼らの様子を見に行きつつ就寝。2人とは到着前に別れを済ませましたが、西安に到着時(6:45)、
ホームで姿を探しましたが見つからずじまいでした。今更ながら、無事に帰国できたのであろうか。

その後、10時過ぎまで寝た私は見慣れた中原の風景を見つつ午後1時40分洛陽に着いたのでした。


パスポート紛失から始まったこの旅行では随分色々な体験をさせていただきました。
旅行中知り合った方々にも面白い話を聞くことができ、今でも良い思いでとして記憶に留まっております。


  確かこの年は村山富市元首相が訪中して江沢民と会談し、核実験について抑制していくという形で話し合いが持
たれていたにもかかわらず、直後に中国が核実験をして見事なまでに裏切られ日本が面目を潰された年でもあっ
た。核実験場所は新疆の砂漠地帯で行うことから、旅の後友人からは放射能で汚染されて帰ってきたな?と冗談交
じりに冷やかされたのを覚えています。最近知りましたが、95年の前後で核実験やらロケット発射失敗事件やら中
国が何かと危険な事をやらかした年だったとか・・・。

自分の中国滞在中に被害にあわなくてよかったぁ、と思う今日この頃であります。
(終)