手は途中で停まるのを嫌がるし、停まっても下手に荷物を置いたままで下車すれば外国人の荷物欲しさに置いて行 かれかねない。荷物の面倒を見る相手のいない一人旅はそういう意味では不便である。 であった。しかし途中で客を拾ったりするものだから人数が増えて空気が悪かった。ただでさえ、埃が酷くて窓が開 けれない上にクーラーもかけないのだから。途中、安西にて昼食休憩を挟み酒泉に着いたときは午後4時。7時間 のバス移動であった。 あった。本来、嘉峪関の街に直接宿泊したかったのだがどうもこちらは程よいホテルが無いという噂を聞いていたの で酒泉を拠点としたのだ。 蘭州までのチケットを手に入れるつもりだったのだ。しかし・・・この金泉賓館は見つけ出したものの、あると聞いてい たCITSは無かったのだ。とりあえずドミトリーにチェックインをする。案内された部屋には多くのベッドが・・・そして私 以外に3人の日本人旅行者がいた。この3人も酒泉からの移動手段を列車と考えていただけにCITSの不在には困 っていたので、翌日一緒に酒泉駅に行くことにした。実はこの頃、私は体調が芳しくなく身体が熱っぽかったのだ。 おかげで記憶が薄いのだがこの日は食事をした後、早々に就寝したような・・・気がする。 ![]() 入れ、兵士たちとともに飲んだとか・・・。それがこの地が酒泉と呼ばれるようになった由縁であるとのこと。その酒泉 のシンボルである鼓楼。 ス乗り場で翌日の深夜の蘭州行きバスを購入した。移動手段に困っていた二人の日本人も一緒である。その後、 私は単独で嘉峪関へと向かう。熱っぽいせいか、イマイチ気分が乗ってこなかったために写真の量が少ないし、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 行ってしまった。そう遠くは無かったのだが、私を横目にタクシーやバスで通り過ぎる人達は不思議そうに私を見て いた。 けるものだからケンカ別れ。帰りは意地でも歩いて嘉峪関の街中に帰る・・・そういって歩いたのでした。はっきり言 って馬鹿でした身体の調子もよくないのに。嘉峪関の街中に入ってからもバス停を探してさ迷い歩き、結局タクシー 捕まえて酒泉まで帰ってきたのでした。タクシーが少なくて随分時間かかりました(^^;) だり楽しかったです。私はともかくよくあんな不衛生な市場に連れて行って食べたものです。今なら日本人は連れて 行けません。中毒が怖くて・・・。 では、列車を停めた日本人に迫るものを感じましたね。 の客と一緒に蹴りまくっていたら、隣の日本の女の子が振り落とされ、挙句後ろ足で蹴られて吹っ飛んだために怖く なって馬の腹を蹴ることができず、先に行った添乗員の迎えが来るまでその場を一歩も動けなかったとか、夕暮れ 時に大雨に降られ、本来無いはずの川に行く手を阻まれて遭難し、暗闇の中近くのパオ(ゲル)に駆け込みモンゴ ル人の世話になって何とか生還できたとか・・・。随分危険な体験ではあっても話す人間によって笑えるものだなぁ、 られてしまったことだ。本人もカメラはくれてやるから思い出のフィルムは返せー・・・と嘆いていたっけ。おまけに 公安局に盗難届けを出しても盗難として扱ってもらえず紛失届けどまりだったとか。何処のバスでどのように盗られ たかも分かっていたので盗難届けを出したのですが、決して盗難として受け付けてくれなかったとのこと。彼は盗難 届けを出したことさえ証明できれば帰国後保険が降りるから・・・と説明してもダメだったらしい。彼の考えでは外国 人の被害届けの数を増やしたくなかったからであろう、との事。そういえばなんかの旅行資料に毎年の地域ごとの 被害届件数が載っていた気がするなぁ。 とかあったのだが、熱を持ち始めた私はどうにも身体が動かずこの日は他の日本人が観光に行く中一人ベッドで寝 込んでいた。ドミトリーはただ広くてベッド以外には何も無い。薬を飲んで誰もいない中一人ポツーンと寝るだけの時 間は結構寂しかったものだ。TVでもあれば少しは違ったろうけど・・・。 な?)の幼馴染同士での初海外旅行と言うこともあり結構緊張していた。中国語ができないため思い通りの旅行が できずに苦労していたらしい。前日もバスのチケットを一緒に手配したり羊肉串を食べさせたら喜んでたし・・・。G君 は結構私と打ち解けてくれたのですけどH君は話しかけてもあまり笑ってもくれなかった。何もしていないのですが嫌 われたのかなぁ、とこっそりG君に聞いてみるとH君人見知りするとの事。結構楽しんでるようだし、嫌ってるわけで はないようですよ、といわれ少し安心(^-^;) が出来るようになりましたが、この時の寝台バスはぎゅうぎゅうず詰めの寝るだけベッド。起き上がれもしないし座れ もしない、事故ろうものなら待っているのは「圧死」あるのみ・・・暑さと狭苦しさの中で死ぬのはいやだぁぁぁ、と つくづく感じた。陽も暮れ暗闇の中を走行するバスは時折休憩のために停車するのであるが外に出ると驚き。何に も無い荒野は東西南北全てが夜空の天然のプラネタリウム。停車している数分間のうちに何度も流れ星を見ること ができた。ちなみにこの数分間の停車は主にトイレタイムだったりするわけだが、面倒なのが女性のトイレ。こんな 荒野に当然ながらトイレなんかあるはずもなく、また草木一本生えていないのだ。トウモロコシでも作付けされていれ ば隠れることもできるのでしょうが・・・。可哀想に数人の女性が随分遠くまで走って用を足しに行っていました。それ にしても・・・荒野の夜って本当に真っ暗・・・・というか闇でした。 そんな時、前方の席でがざわめき始める・・・そして のだ!それも二段ベッドの上段の人民が・・・。ベッドの位置が私は最後部であったので前方の吐いた人民のベッド とは離れていたので被害は無かったが、バス内の空気ははっきり言って最悪だ。 市に入っていた。何処の町だろう・・・と街の様子を伺っているうちにバス停に到着。そこは目的地の蘭州だった。も っと時間がかかると聞いていたので気分的には非常に楽になった。眠気が残る中も凝り固まった身体を伸ばしなが ら我々3人はあたりを散策し始めた。3人の共通の考えは「これからどうしよう」というこうとだ。私は休み明けのこ とがあるので一気に洛陽まで帰って身体を休めて再び北京へ、と思っていたがG君H君は西安に行く予定だという。 西安なら洛陽へ行く途中なのでそこまでは一緒に行きましょう、ということになった。私は一人でもどうとでもなるがこ の二人はバス、列車のチケットも購入する方法がよくわからいようだったので、チケット購入の方法を教えるために 一緒にチケット売り場に並んだ。しかし、東へ行く列車の軟臥、硬臥チケットは全て無し・・・あるのは席無しチケット ばかり。さすがに席無しは嫌だなぁ・・・と感じた私は二人に聞いてみた。 する私は事前に予約をとって行動することが少なかったのでダフ屋を常用していたのだ。ダフ屋らしき人に声を掛け 目的地と出発時間を確認しながら値段交渉。3人目のダフ屋でなんとか3人同じ列車の硬臥で出発することが決ま った。2人は西安、私は洛陽である。残念ながら出発時間までは覚えていないが、午後出発だったはずだ。それま で時間が余っている私達は蘭州を散策しようと行動を開始、荷物をホテルに預けることにした。 時間的余裕があまり無い我々は無理をしないために遠出をせず蘭州の甘粛省博物館の見学に向かう。展示物も 多く、なかなか面白い博物館であった。ただ戦後50周年記念だとかで日本人には困った展示物も多かった。その 後、近くの店で蘭州特産蘭州牛肉麺を食べる。ピリリと辛くて美味しかった。時間のおかげで無理のできない我々 は街を散策しながら荷物を預けたホテルへ。荷物を引き出すとラウンジでゆっくりコーヒーを飲みながら時間を潰 す。大きなホテルだったので結構高級なお土産品が並べられていたので目の保養としました・・・買えないからね。 が違うために私と2人は車輌が別れることになった。時折気を使って2人の様子を見に行く。一見順調に見えたこの 列車の旅も数時間後待っていたかのように問題が発生したのでした!就寝してから間も無くG君が乗務員にベッド の明け渡しを迫られているではないか!服務員とG君の間に入って交渉をすると・・・ のです(正直、ダフ屋から買ったチケットが偽物ではないかと心配しましたが・・・)。その後、私はきちんとチェックしなかった乗務 員の責任も問い詰めてそのミスも認めさせましたが売却済みのチケットはどうにもならなかった。2人は言葉も話せ ないし別れ別れは困るので何とかして欲しい、と嘆願しなんとか毛布を通路に引いて寝ることを許されG君は異例に も通路にて寝ることになったのでした。食い下がりベッドの確保を交渉する私を横にさわやかなG君は「気にしてま せんよ、これもいい思い出ですから・・・」とさっさと通路に毛布を敷いて寝る体勢。そのまま交渉も終了。 たれていたにもかかわらず、直後に中国が核実験をして見事なまでに裏切られ日本が面目を潰された年でもあっ た。核実験場所は新疆の砂漠地帯で行うことから、旅の後友人からは放射能で汚染されて帰ってきたな?と冗談交 じりに冷やかされたのを覚えています。最近知りましたが、95年の前後で核実験やらロケット発射失敗事件やら中 国が何かと危険な事をやらかした年だったとか・・・。 |