秋風五丈原


(1)天水へ


嘉飛「次は五丈原行こうよ!」

T君「いいっすね、行きましょう!」


そういって終わった96年の夏休み。その3週間後・・・


嘉飛「よぉ、そろそろ国慶節だよね。五丈原行かない?」

M君「無理っす、金が無いっす。今回はキャンセルしまっす。」



いきなり頓挫してしまった五丈原への旅、他の留学生はおよそ北京なんかに行くことが決まっているため居残り組みを口説いてメンバーを整えた。結果、1男2女・・・両手に花のメンバーである。


立てた予定は・・・五丈原以外に天水にも行こう!というものだ。
三国志に興味の無い人からすればどうでもいいのだが、天水には祁山がある。街亭もある。この機会を逃せば天水なんかに足は向かないかもしれない・・・そんな焦燥感に駆られた私は強引に予定に加えさせていただいたのである。
列車の利便性も考え天水→五丈原→西安と回ることになった。


9月28日午後1時40分洛陽を出発。しかし自分ひとり硬臥が取れなかったので列車内で一人軟臥を購入。
他の二人とは別に列車内を過ごすことになった。

天水駅に着いたのは翌日9月29日の午前4時過ぎ・・・さすがに外は夜明け前で真っ暗、おまけに雨まで降っている始末。駅で祁山のある礼県までの路線を聞いてバスが来るのを待つ。来たバスに乗り込んでも人数が足らないと出発時間を過ぎても待たされ、天水駅を離れたのは7時近くになっていた記憶がある。

長距離バスは辛いので、できるだけ寝ていようとは思っていたものの、そう何時間も寝ていられるものではなかったのも事実。おかげで礼県に至るまでの間の景色を楽しむことができた。途中、峠を走りながらものすごい綺麗な風景を見たことを覚えているが写真を撮りそこなってしまった。


礼県に迫ってくると道の両側は丘陵になりその中央に川が流れ田畑がある。この辺りはりんごが名産という話であったが言葉どおり各所にりんご畑が見える。雨上がりのおかげで時折見える青空はとても澄んでいて、空気も爽やかであった。

祁山でおろしてくれ・・・そう頼んでいたバスは約束どおり祁山前で我々一行を下ろしてくれた。

嘉飛「おぉ!あの山か!」


祁山堡
三国時代はこの山を中心に魏と蜀の戦いが行われたといわれます。まさに
つわものどもが夢の跡ですね。手前の水溜りは明らかに土が削られてできたもの。近年は無闇に土の売り買いをすることが多くなったと聞きますが、これもその影響なのでしょうか?せっかくの風景も興醒めです。




目の前に鎮座している山が祁山とすぐ分かる。山の上にはなにやら建造物も見える。
登り口のありそうな方面に足を向けると古い農家が立ち並んでいる。ここだけタイムスリップを
したかのような古い家を残す農村に驚きつつ祁山堡の入り口へと向かう。
途中すれ違ったご老人が、映画に出てきそうな古い形のメガネをしていて驚かされた。


祁山堡の入り口
現在は観光地として整備されている。
ここからは階段を上って山の頂上へ向かいます。






山頂・・・(丘みたいに思えますが)には廟があり孔明を中心とした当時の文武官像が並べられています。誰?ってのもいました。

   

祁山堡の武侯祠は道教寺院と隣り合わせである。
道士さんが寺院の管理とあわせて武侯祠も管理しています。
私たちが訪れたときも道士さんがうろついていました。




祁山の戦いを描いた壁画(左)と武侯祠内の孔明像(右)




祁山堡を満喫した我々は次のバスが来るまで道路沿いのお店に入って簡単に食事を取った。
バスの本数が少ないため油断は禁物、常に外をちらちら気にしながらの休息でした。



バスに乗った我々一向は一路天水へ。



もはやはっきりとした記憶は無いのですが、夜は地図に紹介されていた回族徒料理のお店にいって夕食をとったはず。
店にいた阿洪に地元の回族武術の話を聞いたけど、「ここにはそういうものは無い・・・」とあしらわれた記憶が・・・。
天水市内から結構離れていた店だったのでタクシーで乗り付けたのですが、確か川を挟んで通る道がまだできていないとか、
道に迷ったとかで暗闇を彷徨った様な記憶もありますが、まぁ無事にたどり着きこうして活きて帰ってきたことを考えれば記憶が
薄れて行くのも致し方ないでしょう。で、たいして美味しくない上に留学先で食べれそうなものばかりだったので何を食べたのか
も覚えていません。






さて、天水にて一夜を過ごすことになっていた我々はとりあえず天水駅の側の招待所(だったはず)に部屋を取った
のですが部屋はイマイチ薄暗くどことなくジメジメした部屋でした。案の定、女性陣は虫に食われてしまったようで腕
にダニに食われたような痕がありました。どうも私の血は不味いらしく食われたのは女性陣だけでした。






さて、朝6時に起床した我々はそのまま天水のもう一つの見所・麦積山に向かいました。
チャーターしたタクシーは途中で故障、仕方なく別の車を探して麦積山へ

麦積山石窟
中国でも有名な敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟、洛陽の龍門石窟の中国三大石窟に劣らない仏教遺跡。



現在はこの麦積山石窟を加えて中国四大石窟というらしいがその辺はよくわかりません。山・・・というより巨大な岩の壁面に穴を穿ち彫ってある仏像は確かに他の石窟群に劣りません。まるで地中の蟻の巣の断面図のようでした。仏像の保存状態が良く思えたのは絶壁にあったからでしょうか・・・。そうで無い石窟は結構顔面やら腕やらが破壊されていますから。荷物を持って上がることができず、写真は石窟の外からになります。気になることだが・・・これら断崖絶壁の仏像を掘るためにいったいどれだけの人民が死んだのだろうか?昔の権力者なら仏のために仏を作りそうですよね。








麦積山石窟を見終わると、その後方にある滝を見に行ってみました。
砂利道の上り坂をひたすら登りたどり着いたのがこの滝。あんまりでかくなかったので残念であった・・・。
往復1時間くらいかけたのに・・・。






五丈原へ(2)


天水市内に戻った我々はバスターミナルへ、しかしその時すでに次なる目的地「宝鶏市」へ向かうバスは無し。
そのまま天水駅に向かう。頃合の時間に宝鶏市へ向かう列車はあったものの、これがかなり遅れて到着。
人民と先を争いながらも見事に席を奪取!3人でゆったりと宝鶏市までの時間をすごしたのでした。

予定よりもかなり遅れた列車は午後11時過ぎに宝鶏市へ到着。

宝鶏市を散策・・・っていうか夜も遅いので夕食をとりつつ宿泊するホテルを探すことに・・・。

しかし・・・、どこもかしこも満室であったり営業を終了しており、

「外国人は泊まれません」

と撥ねられるところもあった。しかし、野宿するわけには行かない我々は外国人が泊まれないホテルに
事情を説明してなんとか泊まらせていただくことができたのです。部屋に入って時計を見ると時すでに
12時半過ぎでした。




翌朝、宝鶏市内で買い物を済ます。なかなかどうして賑やかな町並み。 
辺鄙な町と思っていたので驚きでした。


ちなみに宝鶏市は三国時代に陳倉城があった地域。
蜀の宰相・諸葛亮と魏の名将・郝昭の攻防の舞台だ!
タクシーの運転手の話では山の中腹に城があったとか言っていたが確認はできなかった。
記憶では南北を貫く道に出ると山が迫るように見えたのが印象的だった。




さて、宝鶏市内の散策を終え五丈原へ向かうバスに乗り込む。
午前11時に宝鶏市を出発し五丈原に到着したのは午後1時頃、
肌寒い中も天気の良い日であった。


五丈原側の小さな町に降り立った我々は町の市場を覗きながら五丈原に向かって歩き始めた。

近くに見えるようでなかなかたどり着けない五丈原・・・実際問題どうやって五丈原まで行けばいいのかもわからない。
市場を抜け町並みを抜け農道を歩きながらひたすらそびえたつ五丈原であろうと思われる台地を目指したのでした。
途中、我々一行を追い抜いていく小さな乗り合いバスを横目で見ながら「乗ればよかったかなぁ・・・」と後悔の念も湧く。
すれ違う農民も・・・「どこ行くんだ?」と聞いてくるので「五丈原」と答えると、「まだ遠いぞ!」と返事が来る。


五丈原までは行けたとしても今日中に西安は行けないかもしれない・・・そんな不安が頭をよぎる。
楽しんでいた五丈原への行軍もだんだん口数が少なくなり、最後は話すこともなくひたすら歩くだけに・・・。


一本道の農道を南へどれだけ歩いたろうか・・・


我々が五丈原の麓に辿り着くまでに1時間半も要していたのだ。
私一人ならともかく女性二人を引き連れての旅行ではいささか行き過ぎたようにも感じるが・・・。


さて目下ならぬ目上に迫った五丈原への入り口は急な階段であった。
その階段の下には諸葛亮が掘らせたという諸葛泉がある。
付近の住民がその井戸から引いた水で洗濯をしている。
ビデオカメラを構えた私が珍しいのか手を動かしながらこちらを窺っていた。

諸葛泉
中に入ってはいません、そう見せかけているだけです





五丈原へとつながる階段
三国志ファン,特に孔明ファンからすれば五丈原はまさに聖地。
この階段は三国志と現世を結ぶ階段でもあります!
バックの建物は当時まだ建造中のもので中はこのように塗装されていない人物像だらけでした。撮影したかったのですが工人に猛反対されしぶしぶ断念。工人のいない場所を狙って何とか1枚だけゲットしました。






行けども行けども上り坂・・・、
五丈原への階段は登り甲斐のあるものでした。





以下五丈原諸葛廟の写真






五丈原に建つ諸葛廟
仁王像のように廟門を守る王平(左)と魏延(右)


連れがいると必ず自分を入れて写真を撮ってしまう。
いまさらながらマニアックなミーハーだ (`・ω・´)






献殿の壁の左右には岳飛(1103-1141)が筆写した前後両篇の 「出師の表」を彫った清代の40枚の石碣を嵌め込んであり、その上には関羽の五関を破り劉備の元へ駆けつける物語や赤壁の戦いの物語も描かれている。





確か廟内の鐘鼓楼には巨大な陣太鼓があって叩く事ができたはず。
空気が揺れるのを体験できます。






孔明をバックに再びやってしまった孔明のコスプレ 奥さんの黄月英




落星石
諸葛亮が病没した時、流星が天地の間を三度往復したとかしないとか・・・それがこの石碑に埋め込まれた石であるとのことです。
諸葛亮衣冠塚



この地を拠点に漢室復興を掲げ魏の討伐を計る孔明、そしてそれを阻む仲達!
五丈原は孔明の力を振り絞った最後の戦いだったのだ!

また「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉を生んだ地でもある(本当か?)

そして、この戦いで勝利者となった仲達は魏の重臣へと上り詰め、その実権を握り、
その息子達が蜀と魏を滅ぼし天下統一へと向かったことを考えれば、五丈原の戦いはまさに三国時代の転換点!
その地に立って、そんなことに思いをはせると自然と頬が緩む私である (*^_^*)






諸葛廟は十分に満足させてもらえますが、私には当時できなかったことがありました。
五丈原に来ておいて五丈原の由来である五丈(約17.5メートル)しかない秦嶺山脈と繋がる部分を、
そしてなにより孔明の本陣跡を見に行けなかったことだ。当時、私は女性二人を無理に歩かせ続け、
さらにここで新たなる遺跡捜索任務を増やすことができなかったのだ・・・・。
今だから言うけど三国志をよく知らない女性を連れまわす限界を感じていました


「な~に、また来てやるさ!」

そう思ってはいましたが、今まで足を運んではいない・・・後悔である。



五丈原より魏を望む

↑本当なら五丈原より西安を望む・・・にしたかったんですが、
間違えて東ではなく西(宝鶏方面)をバックにしていたのです (ToT)








注:みやげ物は結構値が張っていますよ!



帰路

さて・・・・目標を達してしまうと力が抜けてしまう。
がんばって登ってきた階段もおっくうだ (´・ω・`)

せめてもの救いは見下ろす風景がとてもきれいなこと!

ひたすら歩いてきた農道は早々に乗り合いバスを捕まえてもと来た場所へ、

「車でくればこんなに早かったんだね・・・・」

苦笑いをする我々一行を待ち構えていたのは西安へのバスが無いこと!

行きに費やした時間がここに来て響いてきたのだ。



とりあえず一歩でも西安に近づくために眉県まで出た我々は日が暮れかかっている中、
ここで一泊するかお金出してタクシーチャーターして西安まで出るか悩んだ結果、宝鶏市よりも
田舎の眉県ではまた外国人は泊められない、と断れかねないと考えタクシーを選択!



早速、タクシーの運転手と交渉に入り西安までの値段が決まった (^^)b!


早速乗り込み西安へ向けて出発。

助手席に乗り込んだ私は運転手と会話をしながら安心感にひたっていた。


しかし高速を走っていると少しずつ車に異変が起こり始める。
なんとな~く車の走る場所が中央分離帯に近づいてくるのだ!近寄っては離れ、離れては戻り・・・。
最後は分離帯に擦りそうになるまで近寄ったのでたまらず

「おい!!」

と声をかけるとビクッとして運転手は持ち直した。
そう・・・居眠り運転である。

運転手は「大丈夫、大丈夫」といっていたが私が疲れて黙り込むと
すぐ同じことを繰り返すので安心できませんでした。


西安郊外まで来ると運転手は我々を下ろした。
これ以上は西安の車でないと乗り込むことができないという。


仕方なく我々は新しくタクシーを捕まえて無事西安へ入ったのでした。

西安へ入った我々は食事を済ますと西安駅へ向かい翌日の旅遊列車の切符を取り
そのまま駅前に宿を取ったのでした。


翌朝、当時洛陽では食べることができなかったケンタッキーを朝一で購入!
列車の中で楽しみながら洛陽へ帰ったのでした。

途中、今回の旅を振り返りながら新たなる計画を思案していた。

「次は四川省の旅だな!」 

そう堅く決心したのである!





(終)



この時、西安でケンタッキーが楽しめるということを知った私は翌年の旅行で痛い目を見るのである(後日談)。