臼井八景

「臼井八景は印旛沼周辺の風景のうち、臼井城跡付近から眺めた八つの勝景を、中国の瀟湘八景にならって選び出したものである。これは臼井城主の子孫にあたる臼井秀胤(号は信斎)と、円応寺二十四世住職の玄海(号は宋的)とによって元禄十一年(1698)につくられた。」(説)
夕照
1.城嶺夕照:「いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡   永久二年(1114)に千葉常兼の三男常康が初めて臼井の地を治めて以来、十六代臼井久胤までの約四百五十年間、臼井氏は永くこの地の領主であった。その後臼井城は原氏や徳川家康の武将酒井家次の居城となったが、文禄三年(1593)の火事によって、この台地にあった城郭は焼失してしまった。臼井八景は、それからおよそ百年後の元禄期に作られたものである。臼井久胤の玄孫にあたる臼井八景の作者は、夕映えの美しい城跡の嶺に立って、自分の祖先が臼井城の城主であった頃の遠い昔を偲びながら、感慨深く前掲の歌を作り上げたものである。城跡の近くには、往時の土塁や空掘の一部が今でも昔のままに残っている。本丸跡の発掘調査により、十五世紀の中国・明時代の陶磁器の破片や、城が火事になった時の焼け米などが発見されている。北側の山裾には、第六代城主臼井興胤が1339年に創建した瑞満湖山円応寺がある。また空掘の近くには,文明十一年(1479)に臼井城を攻めて討死にした大田道灌の弟・図書の墓がある。」(説)
2.洲崎晴嵐:「ふき払い雲も嵐もなかりけり 洲崎によする波も静かに   洲崎台は現在の八幡台一丁目にあたる場所で、以前は印旛沼を見下す景観のよい高台であった。昔臼井城のあった頃、ここは北の要所として砦が築かれていたといわれる。住宅地に造成されるまでは、このあたりの丘陵は一面の広い松林となっていた。また沼辺に耕地が開拓される前は、この洲崎台下(八幡下)まで印旛沼の水が寄せ、そこには長い洲が広がっていた。その砂浜の上では、鴎や鷺が翼をひろげて休み、岸辺の浅瀬には魚やエビがたくさん住んでいた。晴嵐とは、晴れた日に吹きわたる山風のことであり,前掲の歌にある嵐は靄を意味している。洲崎台に山風が吹き、山の霞も湖面の靄も払われてすっかり晴れ渡ってきた、八幡下の洲崎に寄せる波も静かで、すばらしい風景がひろがっている。沼辺には白鷺の姿があり、松林は風に鳴って琴の音のように聞えてくる。日中の静けさのなかで、明るく晴れ渡った洲崎の眺めはまことに見事なものである、と歌はその情景を詠んでいる。洲崎台(八幡台)の森には、この地の鎮守の神として八幡社がある。第六代城主臼井興胤が慶応元年(1338)に宇佐八幡の霊を移して、領内の土産神としたものである。」(説)
冬景色
3.師戸帰帆:「もろ人の 諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えて かえる夕ぐれ   印旛沼の晴れた日の暮れ方、風が止んで波が静まり、鏡のようになった広い湖面には、向う岸の山並が青墨色にくっきりと映し出されている。その中を、もろもろの人を乗せた渡し舟が、臼井の渡船場から対岸の諸戸(現、印旛村師戸)へゆったりと渡ってゆく。光勝寺の夕べの鐘が鳴って、漁師の白帆舟も三々五々、師戸の河岸へ帰ってゆく。三百年前の元禄時代、円応寺のそばに住んでいた「臼井八景」の作者は、この辺りの湖岸から師戸へ帰る帆舟を眺めながら、一幅の絵のような美しい情景を楽しんでいた。そして、もろもろの人と師戸の人を掛けて、その秀景を前掲の歌に詠んでいる。」(説)
4.舟戸夜雨:「漁する舟戸の浪のよるの雨に ぬれてや網の縄手くるしき   舟戸は昔、上総から常陸へ通ずる道の渡船場であった。また印旛沼で魚や貝を捕る漁師たちの、船留の場所にもなっていた。このあたりは漁師の家が点在する鄙びた小さな漁村であった。その昔、舟戸の風景は晴れた日中もよいが、雨の降る夜もまた格別の風情があったといわれる。しとしと小雨の降る舟戸の夜は物寂しく、暗い岸辺の家からは青白い灯がぼんやりと光って見える。時折宵闇の湖面から水浴する鴨の声がさわがしく聞こえてくる。この雨のなか、漁師の翁が小舟に乗って漁をしている。網が雨に濡れ、浪に寄せられて、網をひく縄手が辛そうにみえる、と前掲の歌は、雨の夜景を詠んだものである。」(説)
桜と菜の花
5.光勝晩鐘:「けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん   今日も暮れた。何年も続いた古い寺の鐘が、昔と変わらずに鳴り響いている。元禄十一年の秋。ようやく玄海僧と秀胤の八景競作も終わりに近づいていた。しかし最後の歌は難産となっていた。とぼとぼと佐倉の城下から帰る頃、湖にかかる大空に夕焼けが広がり始めていた。疲れを忘れさせるような、いつ見ても見飽きることのない景色であった。たちまちのうちに茜色に染まり、空は刻々と色を変え、夕日は刻々と位置を変え、壮大な絵を描きながら、たちまちのうちに黒いシルエットを浮かび上がらせる。その中に臼井家の先祖が活躍、躍動した城跡が浮かんでいた。臼井に住んだ昔日の英雄が同じ夕日をみながら、それぞれにくらし、戦をし、はかりごとをし、祭りで楽しみ、精一杯に生きたことが良くわかる夕日であった。今や秀胤が受け継いで、ここに生き、城跡を眺めながら秋の湖畔の風にふかれて歩んでいた。湖から突然大きな羽音をたてて鳥が飛び立った。もう夕方なのだ、あわてることはない。明日があるから。」(小畑良夫著 臼井城物語 より)
6.瀬戸秋月:「もろこしの 西の湖かくやらん には照る浪の 瀬戸の月影   晴れわたった秋の夜、向う岸にある瀬戸村の空高く澄んだ月が冴え渡り、その名月が印旛沼の水に映えて、きらきらと光り輝いている。清らかな風が静かな水面を渡ってゆくと、湖面の月影は流れるようにさざ波に漂って見える風景の美しさで有名な、もろこし(中国)の西湖も、名月の夜はきっとこのように見事な情景であろう、と臼井八景の作者は、未だ見ぬ中国の名勝に想いを寄せながら、瀬戸の秋月を上の歌に詠んでいる。(歌の"には"は波の静かで平らな水面の意)瀬戸はこの場所から見ると、印旛沼の右手一番奥まった対岸に位置し、以前は佐倉市(土浮)から瀬戸へ渡し舟が通っていたが、印旛沼が北と西に分断されてからは、瀬戸は佐倉市と地つづきになった。その瀬戸村も今は印旛村となり、現在瀬戸は同村の中心地となっている。臼井八景のうち、遠部落雁や光勝晩鐘などの光景は、この地から失われてしまったが、三百年前に八景の作者が臼井の岸辺から愛でた、瀬戸秋月は、今でもこの辺りから湖上に美しく眺めることができる。」(説)
釣り人一人
7.遠部落雁:「手を折りて ひとつふたつと かぞふれば みちてとおべに 落つる雁がね   稲穂を干すために作った梁の稲や落ち穂を、腹一杯についばんだ鳥が浅瀬になん羽も見られ、とても指で数えられる十では足りないくらいである。遠部は今、干拓されてオランダ風の風車がまわり、春には目に鮮やかな色とりどりのチューリップが咲き乱れ、夏ともなると国際的な花火がうちあげられ人々の歓声がとどろいている。遠部の近くに、舟戸や師戸の渡しと同じように、古くからもうひとつの渡しがあった。土浮と瀬戸を結ぶ渡しである。瀬戸渡しと呼ばれていた。対岸の瀬戸からは道が利根川まで続く要所であった。」(小畑良夫著 臼井城物語 より)
8.飯野暮雪:「ふり積る夕べを見ぬ人に かくと いいのの ことの葉もなし   草ぶえの丘や湖畔荘のある飯野の台地は、昔は樹木のうっそうと茂った人気のない寂しい丘であった。印旛沼の湖面へ突き出たこの高台に、雪の降り積もる夕暮の風景は、まことに風情のあるものであった。前掲の歌は「飯野」と「言ひの」の掛詞を使いながら、雪の降る飯野の夕景を詠んだものである。趣の深い、この美しい眺めを見たことのない人に、飯野の雪景色はこんなに見事ですよ、と話しても、そのすばらしさを言い尽す言葉がみつからない、と謳っている。印旛沼の中には水の湧き出る深い穴があって、そこには竜神が住んでいた。旱魃の時竜神に雨乞いをすれば、その願いがかなえられる、という伝説がこの地方に古くから伝わっていた。切り立った飯野台の、その崖下のあたりで、うす暗い沼の波間に、きらりと光って隠れてゆく竜が見えた、と臼井八景の作者は、「飯野暮雪」に添える七言絶句の中に詠んでいる。飯野台は昭和四十九年、農林省によって自然休暇村に指定され、自然とのふれあいを求める人達の楽しいレクリエーションの場として利用されている。また四季の小鳥や水鳥を楽しく観察できる野鳥の森にもなっている。」(説)
船戸大橋へ防人の碑へ