矢車草



	  ギルモア研究所に荷物が届いた。
	  差出人の名前は、「矢車キク」。コンピュータ打ち出しの荷票には、住所も電話番号
	も記されていない。
	  この日、研究所にいたのは、ギルモアだけであった。
	「さて、どうしたもんかの。送り主の名前に心当たりがないし。中身が何なのかくら
	い、配達人に聞いておくんだった」
	  届いた荷物は、四角い板のようで、およそ二メートル四方。
	「とりあえず、X線を当ててみるとしようか」
	 荷物は、リビングの壁に立て掛けてある。配達の人が、気をきかせて、中まで運んで
	くれたのだった。
	「しかし、どうやってこれを、研究室まで運んだらよいかの」
	 思い悩んでいるところへ、電話が掛かってきた。
	「もしもし。こちら丸々運送でございます。お尋ね致しますが、そちらに、油絵の荷
	物が、運ばれていませんでしょうか。実は当方の伝票入力ミスで、他にも……」
	 ギルモアは、荷物に目をやった。
	
	
	 ジョー達が帰ってきたのは、とっぷりと日が暮れてからだった。
	 ギルモアは満面の笑みで彼らを迎え、早速三人をリビングに呼んだ。
	「まあ、すてきな絵。どうしたんですか、これ」
	 最初に感嘆の声を上げたのは、フランソワーズだった。
	「オオキナ油絵ダネ、博士。ソレニ、描カレテカラ、マダ間モナイヨウダ」
	「うん、微かに絵の具の臭いがしてるね」
	 イワンの言葉に、ジョーが相槌をうつ。
	 ギルモアは、リビングの壁に立て掛けてある油絵と、それを見入っている三人とを、
	交互に見て、微笑んでいる。
	 油絵には、一人の女性が描かれていた。画面左の籐椅子に坐り、軽く首を傾げ、目を
	瞑っている。膝の上には、矢車草の花束。画面の右側は、大きなガラス窓。その窓は
	少し開いていて、その向こうは。
	「本当に、一体いつこの絵を買ったんですか、博士」
	 フランソワーズが、ギルモアを振り返った。
	「いやいや、買った訳ではないんだよ。今夜一晩預かるだけだ。運送会社のミスで、
	間違って届けられたんだ」
	「運送会社の間違いって、どういうことですか」
	 ジョーが不審そうに聞く。
	「何でも、グループ展に出品するために発送したそうなんだが、絵は他に何枚もあっ
	て、それが、伝票の入力間違いで、てんでバラバラの住所に配送してしまったそうな
	んだ」
	 夕方、運送会社から二度目の電話があり、別の誤配住所の確認に手間取っているので、
	荷物の回収は明日の朝一番で、今晩のところは預かっていてもらいたい、と言ってき
	た。
	「小さな運送会社だから、人手が足りんらしい。それで、こういうことになったんだ。
	先方が、絵のタイトルを知らせてほしいと言うので、梱包を解いてみたら、まあ、こ
	んな絵だった訳じゃよ」
	「こんな絵だなんて。幸せな夢を見ているようじゃない、この女の人。とてもすてき。
	ね、ジョー」
	「うん」
	「博士、絵ノタイトルハ、何トイウノ」
	「『矢車草』と書いてあったよ。額の裏にメモが貼ってあってね、作者名は『矢車キ
	ク』」
	「あら、それじゃ、きっと矢車草の花が好きな人なのね」
	 フランソワーズの言葉を聞いて、ジョーとギルモアは、首を傾げた。
	「フランソワーズ、どうして、そんなことがわかるんだい」
	 ジョーの質問に、フランソワーズは笑顔で答えた。
	「だって、タイトルの矢車草って、矢車菊のことよ。本当は、別に矢車草という植物
	があるんだけど、一般には、矢車菊のことを矢車草と言うんですって。園芸の本に書
	いてあったわ。それにほら、絵の中の矢車草、とても丁寧に描かれているでしょう」
	彼女の言葉に、ふーん、とジョーは応えただけだったが、ギルモアは何度も頷いてい
	た。
	
	
	 遅めの夕食が済むと、ギルモアは早々に眠気を感じて、ベッドに入った。
	どれくらい眠っただろうか。
	 目を覚ますと、部屋の中は暗く、静まり返っている。
	 何度目かの寝返りの後、ギルモアは喉の渇きを覚えて、起き上がった。
	リビングに入る。明かりを付けたギルモアは、突然現れた人影に驚いた。
	「おお、そうだった。絵を預かっとったな」
	 絵の中の女性は、今も目を瞑り、微笑むような口許を灯の下に晒している。
	「どれ、失礼しますよ。何か飲みたくなってね」
	 まるで、絵の中の女性に話しかけるように呟くと、ギルモアはキッチンへ行った。
	 カウンターには、ピッチャーが一つ残されていた。今日の夕食時に、これに氷と水を
	入れて、フランソワーズがテーブルに出してくれたものだ。
	 ギルモアは、そのピッチャーに氷と水を入れて戻ってきた。
	 次に、キャビネットからウイスキーのボトルとグラスを取り出した。そして、例の油
	絵が見えるソファーに腰掛ける。
	「静かだな。イワンも眠ってしまったのだろうか」
	 ギルモアが夜中に起き出せば、昼の時間のイワンは、きっと声を掛けてくる。
	 しかし、今晩は、静かであった。
	 昼の時間の内でも、イワンは、時々赤ん坊の昼寝のように仮眠を取ることがあるから、
	今はきっとその時間なのだろう、とギルモアは独り言ちた。
	「一人で飲む酒は、好きじゃないんだが。今日はお前さんがいるからね。明日の朝に
	はお別れだし。歓送迎会だな」
	 ウイスキーの水割りをつくりながら、ギルモアは絵の中の女性に話しかける。
	「あんたは目を閉じている。だから、あんたにはわしの姿が見えとらん。わしの声だ
	けだ。だから、あんたには言えると思う」
	 ギルモアは、グラスを飲み干した。
	「ジョーやフランソワーズには、言えないんだよ。言ったらどんなにか、悲しむだろ
	う。わしを恨むかもしれん。だから言えないんだ」
	 二杯目のグラスをも、彼は一気に飲み干した。
	「わしのしたことは、してきたことは、良いことではなかった。わしのしてきたこと
	で、辛い思いをした子供たちが九人もいるんだよ。わしは彼らを苦しめた」
	 三杯目のグラスに口をつける頃には、ギルモアの目が潤んできた。
	「それなのに、わしは、今ここで、こうして、酒を飲んでいる。何故だかわかるかね。
	ジョーやフランソワーズやイワンと一緒に暮らしていて、夜中に一人で酒を飲んでい
	るんだ。わしは、わしは、自分のしてきたことを知っているのに」
	 ギルモアは、絵の女性を見つめた。彼女はかわらず、口許に笑みを浮かべて目を閉じ
	ている。
	「フランソワーズは、そりゃあ楽しそうに庭いじりをするんだよ。海風で、庭の木は
	大きくならないが、花は、気をつけてやれば綺麗に咲くからと。ジョーもよく手伝っ
	ているよ。泥だらけになりながら、笑っている。笑って、笑って、イワンにからかわ
	れて、それでも笑って。なあ、何故、彼らは笑ってくれるのだろう、こんなわしの前
	で」
	 絵の中の女性は、何も言わない。
	「わしもつられて笑ってしまうんだ。何故だろうか。彼らが笑うと、わしは笑ってし
	まうんだよ。笑えるんだよ」
	 だんだん、ギルモアの目が細くなってきた。
	「笑えるんだ。わしは、こんなにも……笑うんだ。こんなに……笑えるんだ。こんな
	に……今は……こんな……に……」
	 とうとう、ギルモアの目が、重い瞼に閉じられた。
	
	
	 しばらくして、静かにリビングのドアが開く。
	
	
	「博士、眠ったようね」
	 フランソワーズの言葉を合図に、ジョーとイワンも、リビングに入ってきた。
	「本当に一人でお酒を飲ませて、よかったのかな」
	「大丈夫ダ。明日ハ元気ニ起キテクルヨ」
	 イワンの言葉に、フランソワーズも頷いた。
	「ここ何日か元気がないし、イワンも、博士は眠りが浅いようだというし。でも、も
	う大丈夫よね。ほら、笑ってるみたいな寝顔をしてるわ」
	「うん、そうだね」
	 ジョーは、壁際の油絵に目を遣った。
	「あの絵を貸してもらえてよかったよ。本当は、買うことが出来たらよかったんだけ
	ど」
	「仕方がないわ。もう、買い手がついてるというんだもの」
	 フランソワーズも名残惜しそうに、絵を見る。
	「サア、博士ヲ寝室ニ運ボウ。じょー、どあヲ開ケテクレルカイ」
	「イワン、ぼくが博士を」
	 ジョーが言いかけるのを、イワンが遮った。
	「今日ハ、ぼくニ、マカセテ。ふらんそわーずハ、片付ケヲ頼ムヨ」
	「ええ、イワン、博士をお願いね」
	 ふわりと、ギルモアの体が浮かび上がる。イワンがギルモアの体を引くように移動し
	て、ジョーが開けたドアからするりと出て行った。ジョーも彼らの後に続いた。
	 リビングに残ったフランソワーズは、グラスを片付けようと腰をかがめ、手を伸ばし
	た。が、その手はグラスに触れる前に、止まった。
	 彼女は、ゆっくり、油絵に視線を移す。
	 そこには、今も静かに目を閉じている、女性がいた。
	「今日はありがとう、博士の話を聞いてくれて。絵にお礼を言うのはへんな気分だけ
	ど。ね、あなたは知っているかしら。ううん、この絵を描いたあなたは、知っている
	わよね。矢車草の花言葉、幸福感というのよ」
	 フランソワーズは、キッチンにグラスとピッチャーを運んでいった。
	
	
	 数日後、ジョーとフランソワーズは、リビングからよく見える場所に、新しい花壇を
	作っていた。フランソワーズの指示の下、ジョーが大きなスコップで土を掘り返す。
	 その回りを、イワンが揺り籠に乗って、飛んでいた。
	「ネエ、じょー。ぼくニモ、ヤラセテ」
	「今日は、だめだよ」
	「ソンナコト言ワナイデ。ホンノ、チョットダケデイイカラ」
	「また、泥をかけられちゃ、たまらないよ」
	 フランソワーズは、二人の遣り取りを、笑いながら聞いている。
	「コノ間ハ、力加減ガワカラナカッタカラ失敗シタケド、今度ハ大丈夫」
	「イワンは、一度、スコップを手にすると、なかなか返してくれないからな」
	「スグ返スヨ」
	「だめだ」
	 ジョーに拒否されて、イワンはますます速く、彼らの回りを飛び始めた。
	「イワン」
	 フランソワーズが、笑いを噛みしめて、声をかける。
	「こっちを手伝ってちょうだい。ほら、この小さなスコップで、肥料を土に混ぜるの。
	お願い」
	 呼ばれて、イワンはフランソワーズの傍らに降りてきた。
	「オオキイホウガ、イイノニナ」
	 そう言いながらも、イワンは、その見えざる手で、スコップを動かした。フランソ
	ワーズが土の上に蒔いた肥料を、スコップで器用に混ぜ返していく。
	「上手よ。イワン」
	 フランソワーズが褒めた。
	 すると、調子に乗ったのか、イワンのスコップの動きが、速くなる。何回か、土をす
	くう動作が大きくなったと思うと、突然、土の固まりが空に飛びだした。
	「きゃっ」
   	 フランソワーズに土がふりかかる。
	「イワンっ」
	 ジョーが叫ぶのと同時に、彼にも土の塊が襲いかかった。
	「こら、やめろよ、イワン」
	 ジョーは、尻餅をついて動けないフランソワーズを、土埃の中から救い出し、イワン
	を探した。
	 イワンは、自分も土まみれになりながら、花壇の上を飛び回っている。
	「あーあ、また泥だらけね」
	 フランソワーズが言えば、
	「しょうがないなあ」
	 ジョーもため息をつく。
	 そして、二人は声をたてて笑った。
	 その笑い声は、ギルモアのいるリビングまで響く。
	 ギルモアは、外の様子を、目を細めて眺めていた。
	 あの夜、ギルモアは一度も目を覚まさずに眠り続けた。結局は寝坊してしまい、翌朝
	に運送会社の人間がやって来て、油絵を引き取って行ったことも知らずに眠っていた。
	 目覚めて、もう油絵がないことに気付いたギルモアの表情を、ジョーはじっと見てい
	 たが、その時の彼は何も言わなかった。
	 何日かして、街へ買い物に出掛けたジョーは、お土産にと、花の種を沢山買ってきた。
	 フランソワーズが手を叩いて喜んで、早速新しい花壇作りが始まったのだ。
	 種の入った袋は、今、リビングのテーブルの上にある。
	 ギルモアは、何種類もの花の種の名前を、一つひとつ確かめているうちに、袋の裏に
	花言葉が記されていることに気がついた。
	 ある花の絵に、目がとまる。それは、件の油絵にあった花と同じであった。
	裏返して、文字を読む。静かに微笑む。
	 そして、リビングから庭へ出た。
	「イワンや、わしも手伝うよ」
	 三人の笑顔が、ギルモアを迎えた。


             終                        
                                                                    (C)飛鳥 2002.4.1