たびだち

 二年という期限をつけたのは、フランソワーズだった。  ここ日本で、ギルモア博士とイワンと一緒の暮らしは、もう数年続いていた。仲間 たちは、ときどきやって来て賑やかし、またいなくなった。僕たちはそんな中で、一 家族のように自然に暮らしてきたつもりだった。  それなのに、結婚を決めたとき、何か物足りない気がした。  そう感じていたのはフランソワーズも同じだったようで、式をいつにするか、みん なへの連絡は、と話を始めると、彼女は決まって浮かない顔をした。そして、数週間 二人で考えた結果が、しばらくギルモア邸から離れて暮らす、ということだった。 「ジョー、わたしの用意はできたわ」  フランソワーズが小さな旅行鞄とコートを手に持って、玄関ホールに現れた。  僕たちは、これからギルモア邸を後にする。それぞれ選んだ地で、新しい生活を始 める用意は、すでにできていた。  二人で玄関の扉を閉めて、鍵を掛ける。本来の主のギルモア博士は、昨夜は張々湖 飯店に泊まった。 「戻ってくるとわかっていても、二人を見送るのは辛いから」  そう言って、迎えにきたグレートの車にイワンとともに乗り込んだ。今夜、パリへ 旅立つフランソワーズを見送るために、空港へは来てくれるはずだ。 「少しの間、こことはお別れね」  フランソワーズは、庭を眺めていた。来年の春咲くようにと、昨日、彼女は花壇に 球根を植えていた。 「花が咲いたら、写真を撮って送るよ」  フランソワーズの肩を抱いて、僕は約束した。  今夜から、僕も一人暮らしだ。今は、この温もりが懐かしい。 「ときどきは、イワンやギルモア博士の様子を知らせてね。何かあったら、すぐ帰っ てくるわ」  フランソワーズが心配そうに言う。 「大丈夫だよ。僕は、東京にいるんだから」  彼女を元気づけるために笑ったつもりだったけど、うまくいかなかったらしい。フ ランソワーズは、今度は僕の顔を覗き込んで、言った。 「それも心配」  何が。なんて言わなくても、彼女には通じた。 「全部」  そして、軽やかに僕の腕をすり抜ける。 「行きましょう。早く行けば、早く帰ってこられるわ」  今度こそ、僕は笑った。  空港まで車を走らせながら、僕は、あの日の言葉を思い出していた。 「二年経ったら、迎えに来てね」  彼女は、そう言った。その後に続いた言葉は、思い出すとハンドル操作を間違えそ うだから、やめておく。たいしたことじゃない。花がほしいと言っただけだ。 「ジョー、約束、忘れないでね」  隣に坐るフランソワーズが、おかしそうに笑っている。何で、僕の考えが、彼女に はすぐわかってしまうんだろう。 「それは、ジョーのことが好きだから」  あやうくハンドルを切りそうになった。ここから落ちると、冬の海に真っ逆さまだ。 慌ててスピードを落とす。 「フランソワーズ、からかわないでくれよ」  ちらと彼女に目をやると、ふいと顔をそむけてしまった。そのまま、窓の外を眺め ている。  閉め切った窓の向こうから、かすかに波の音が聞こえる気がした。冬の午後の陽は、 もう黄身色がかっている。 「ね、フランソワーズ。どうして、夜の飛行機にしたんだい」  チケットの予約をしたときの、彼女はどこか頼り無げで、今にも泣きだしそうで、 でも、彼女は泣かなかった。不思議とその表情に惹かれて、僕は傍でじっと彼女のこ とを見つめていた。後で、君に笑われたっけ。 「星空の中を、飛んで行きたかったの」  ゆっくりと話しだす、フランソワーズ。 「星は、昼間は太陽の光が眩しくて見えないけれど、本当はいつだって、空の上にあ るんだわ。いつだって、わたしのことを見ていてくれる。だから、こんなわたしも、 よく見てほしいと思って」 「こんな、わたし?」 「パリで、何か新しいことを始める、わたし。パリでも、ちゃんとわたしのことを見 ていてくれるように」  それは、祈りなのよ。  つぶやく彼女の声は、かすかな痛みを僕の胸に覚えさせる。 その後、冬枯れの街の中を、僕たちは取り留めのない話をして通り過ぎた。  空港に着くと、すでにギルモア博士が待っていてくれた。イワンは、グレートに抱 かれている。 「張々湖は、店が忙しいと言って、どうしても車に乗らなかったんだ」  グレートが言った。彼の目の下には、薄く隈が浮いていた。 「フランソワーズ、元気で。ヨーロッパに行くときは、きっと会いに行くよ」 「ええ、待ってる。イワンと博士をお願いね。それから、ジョーのことも」  首を傾げるように僕を見て、フランソワーズは言った。 「お任せあれ。ちゃんと痩せないように、見張ってるよ。ああ、ジョーは太らないよ うに」 「何で、僕が太るんだよ」 「男の一人暮らしは、栄養が偏る。外食ばかりだとなおさらだ。張々湖は何日も前か ら、博士とジョーの、それぞれの食事のメニューを考えていた」 「それで、どうして僕が太るなんて言うのさ」  グレートは、溜め息をついた。イワンをフランソワーズにあずけると、僕の肩をぐ いと押して、数歩後ろに下がらせる。そして、小声でこんなことを言った。 「だから、太るのは、フランソワーズの手料理を食べてからの方がイイという、先輩 からのアドバイスだ」 「そんなこと、ここで言わなくたっていいだろう」 「言った方がおもしろい」 「グレートッ」  思わず、声に力が籠もる。 「ハイハイ、青年よ、寂しかったら、いつでも酒のお相手を致しますぞ」  大げさな身振り手振りで誤魔化された。 「ジョー」  気がつくと、ギルモア博士がすぐ傍に立っていた。 「わしは、ここでもう帰るよ。後で、張々湖飯店へ寄っておくれ」 「博士」 「わしがいつまでもおると、フランソワーズが行きづらいじゃろう」  少し、声が震えていた。 (フランソワーズ、いってらっしゃい)  彼女の腕の中で、イワンが身を伸ばしてキスをしようとしていた。フランソワーズ が背を丸めるようにして、そのキスをうける。  そして、イワンはギルモア博士に抱かれ、グレートに付き添われて姿を消した。  残った僕たちは、決して人けの少ないとは言えないロビーで、抱擁を交わし、別れ の言葉を探して見つめ合う。  こんなとき、君を安心して送り出せる言葉を、持っていたらいいのに。  彼女は、静かに首を振った。唇が小さく動く。 「待ってるわ。迎えに来てくれるのを」 「やっぱり、バラの花じゃなきゃだめかい」 「もちろん。でも、色は赤でも白でもいいのよ。わたしはどちらも好きだから」  顔が火照っていくのがわかる。そんなことを言ったフランソワーズも、下を向いた 頬が赤い。 「もう行くわ」  離れていこうとするフランソワーズを、もう一度抱きしめる。それから、ゆっくり 腕を開いた。彼女は、羽を広げた蝶のように軽やかに舞って、ガラスと鉄の壁の奥に 消えていった。  僕も歩きだす。  でも、顔は火照りっぱなしだ。あの日の言葉を、思い出したせいだ。 「日本の白い花嫁衣装には、『貴方の色に染まります』という意味がこめられている のでしょう。だから、バラの花の色は、赤か白か、ジョーが決めてね」  両方一緒、ていうのは、だめかなあ。  そして、目の前に現れた見知った顔に、更に顔を赤くすることになった。 (一抱えあるよ。それで、フランソワーズを抱けるかい) 「イワン!?」 (大丈夫。ジョーだけだから)  イワンを抱いたギルモア博士と、グレートが、柱の陰から現れたのだ。もしかして、 ずっと見てたのか。 (こっちに歩いてくるところからは、見てない)  一部始終見てたってことじゃないか。  まあまあと、グレートとギルモア博士が笑っている。  僕は、息を大きく吐き出した。まあ、いいさ。 「さあ、行こう」  僕は、再び歩きだした。未来へ、向かって。                   「たびだち」 (C)飛鳥 2003. 3.15.