海岸には、数日前の焚き火の跡が残っていた。黒い炭が砂に混じり、そこ だけとてもよく目立った。すべて燃やしたと思っていたのに、まるで燃やし 残しがあるみたいだ。 否。 実際、僕の中には、燃え残しがあるんだ。 ごめん。フランソワーズ。 今年は、無理だったみたいだ。 「ジョー、今年も七夕の飾りを燃やすの、お願いね」 毎年、彼女はとても楽しそうに、七夕の飾りを折り紙で作る。そして、願 い事を書いた短冊を仲間の分もあわせて吊るし終えると、僕の方を見て言う のだ。お願いねって。願い事を天に届けるために、燃やして煙に変えるのだ と言う。いつだったか、誰かに教えてもらった、七夕の不思議な秘め事を、 彼女と僕は毎年続けている。 願い、か。 僕は、遠くの水平線を眺めた。 長年の願いを叶えるために、この海を渡っていった男を、僕は知っている。 彼は、目前に控えた結婚式を投げ出して、旅に出たと言う。その人と顔を会 わせたことはない。だが、彼の婚約者だった女性から、幾度か写真を見せて もらったし、噂話も聞かされた。それは、時に罵声の言葉であったり涙声で あったりと、ひどく落ち着かないものだったけれど、彼女が海の向こうの彼 をずっと想い続けている事を、十二分に示している時間だった。 そして、その時は、一緒に話を聞いているフランソワーズが、とても不思 議な表情をする時間でもあった。横から見ると、泣いているように見えた。 見様によっては、口許に笑みが浮かんでいるようにも。彼女に限って、人の 悲しみを笑い飛ばすような事はしないと思う。でも、その時のフランソワー ズの顔は、僕をひどく不安にさせた。 僕は。 フランソワーズの願いならば、どんな事だって叶えてあげたいと思う。実 際そうしなくちゃ、僕の方が気が狂ってしまうだろう。 いつからか、気が付いていた。 僕は、何かをしなくちゃいけない。それがフランソワーズの願い事ならば、 叶えなければならない。僕が僕であるために。ここにいるために。 でも。 海を見ると、不安になる。 波の音を聞くと、心を掻き乱される。 お前はいつか、この海を渡るのだと、誰かの声が聞こえるんだ。 それがとても不安で、僕は毎年、七夕に願いをかけていた。僕の望みを、 フランソワーズを愛することを残して、すべて燃やしてくださいと。ここを 離れなくても済むように。 それなのに。 ごめんね。フランソワーズ。 今年は、君に言わなければならない。 僕が、本当は何をしたいのか。何処へ行きたいのか。 僕は、君を愛したい。僕は、君と一緒にいたい。僕は、イワンとギルモア 博士と、ここで暮らしたい。それから。 それから、ゆっくりと視線を動かすと、砂浜の外れの岩場の上を、フラン ソワーズがこちらに向かってやって来るのが見えた。白い手足が、ひどく細 く見える。 「ジョー」 彼女が、僕の名を呼んだ。それはまるで、映画のワンシーンを見ているよ うだった。 「ジョーったら、ボーとしてる」 うん。君がとてもきれいだったから。 フランソワーズの頬が少し赤らんだ。 「ありがとう。でも、それを言うなら、あなただって」 僕? 「砂浜に一人で立っているトコなんて、絵になってるわよ」 一人で……。そうかな。 笑いだした僕を、フランソワーズが拗ねたような顔で見上げている。 「あなたにお願いしようと思ったけど、やめようかしら」 フランソワーズは、僕に背を向けてしまった。淡い色の髪の毛が風になぶ られて、白いうなじを露にする。 なんだい、お願いって。 「どうしようかしら」 僕は考えてみた。イワンは眠っている。ギルモア博士は、この時間は研究 室だ。彼女がわざわざ僕を探して、海岸まで降りてきたということは、きっ と車を出してほしいってことだろう。これは、今の時間、僕にしかできない ことだから。 ねえ、フランソワーズ。こっちを向いてよ。 「電話がきたの」 フランソワーズは振り向いてくれず、僕は、彼女の肩ごしに声を聞いた。 「彼から葉書がきたんですって。今、ヨーロッパにいるって」 ヨーロッパ? 「そう。8ヵ月も音沙汰なしで、今更って、彼女、とっても嬉しそうだった。 彼の悪口言いながら、笑っているの。よかったわ。元気になって」 そうだね。あの振袖を預かりに行った時は、全然笑ってくれなかった。強 張った顔の彼女を見て、フランソワーズまで泣きそうな顔をしていた。 「それでね。振袖を返してほしいって」 振袖を?着る気になったのかな。彼、帰ってくるのかい。 「違うわ。彼女が振袖持って、ヨーロッパへ行くんですって」 へえ、押しかけ女房するんだ。 「違うわよ。花嫁になるの」 ……同じことだろう。 「違います」 この時になって、やっとフランソワーズは僕の方を向いてくれた。青い瞳 が僕を睨んでいる。僕は両手を挙げて、降参の合図をした。彼女は、女房と いう言葉より、花嫁の方が好みらしい。 「やだ、ジョーったら」 フランソワーズが笑う。 「それで、今すぐ張大人のお店まで届けてあげたいの。彼女もそこで待って てくれるって。車、お願いできる?」 もちろんだよ。 僕は、自分の予想が当たったことに、一人笑みをこぼした。そして近い将 来、僕が告げるだろう言葉に、フランソワーズが頷いてくれるといいと思っ た。いや、フランソワーズなら、きっと頷いてくれる。笑っている時も泣い ている時も、彼女は僕よりずっと強いんだから。ああ、間違えた。僕がフラ ンソワーズに弱いんだった。この前、イワンに言われたっけ。 「ありがとう。それじゃ、すぐに用意するわね」 フランソワーズはクルリと向きを変えると、歩きはじめた。僕は後ろから ついていく。 波の音が聞こえた。 足元には、波が打ち寄せては消えていく。 この波に乗っていけば、やがて見知らぬ土地に流れ着くだろう。そこには、 まだ誰も知らない何かが眠っている。そして、それを最初に発見するのは、 僕かもしれない。 そこまで考えて、苦笑した。 それこそ、お伽話だ。 「行ってもいいわ」 潮風に混じって、声が聞こえた。 思わず、足が止まる。 今なんて言ったの、フランソワーズ。 僕は、急に不安になった。まさか、君も行ってしまうつもりか。 振り返ってくれた、フランソワーズの顔はただ微笑むばかり。彼女の髪が、 潮風になびいている。 白くて細い手が、僕の方へ伸びてきた。僕は、その手を握りしめる。そう しないと、彼女が風に飛ばされてしまうと思った。もちろん、そんなことは 有り得ないのだが。 フランソワーズの顔を見ると、彼女はにっこりと笑ってくれた。僕は、そ の笑顔を見て、安心する。そうだ。フランソワーズが何処かへ行くはずがな い。僕が行かない限り、彼女はここにいてくれる。 僕は、フランソワーズの手を引いて、歩き出した。彼女は、黙って僕につ いてきてくれた。 「さざ波」 009狂想曲 第九番 終 (C)飛鳥 2003.1 .11.