009狂想曲 第八番

 

6月 ピアノ

 
    

 梅雨空の中「出掛けよう」と声をかけたら、ジョーの奴、意外そうな顔を
しやがった。行き先は、ベーゼンドルファーの日本支社。俺が、ピアノでも
買うかと思ったのだろうか。
「ハインリヒ、何しに行くんだい」
 行きの電車の中で、ジョーが小声で聞いてきた。蒸し暑い車内は、さほど
混雑はしていない。
「ああ。古い楽器のコレクションがあるそうだ。見せて貰えるように頼んで
みたら、OK貰えてな。雨で退屈そうに見えたから、お前さんを誘ってみた
んだが……」
 ジョーは、くるりと目を動かした。
「……興味あるよな」
「うん、そうだね。どれくらい古い物があるんだろう」
「考古学的に、古い物は期待するなよ。一応、今でも演奏できる楽器なんだ
から」
「そうなんだ」
 あからさまに落胆の色を見せなかった事は、誉めてやろう。
 ジョーは最近、考古学に興味を持ちはじめたようだ。俺が日本に来たその
夜に、ギルモア博士がうれしそうに話してくれた。博士はいつも、自分や研
究所の世話ばかりさせていて申し訳ないと気に病んでいたからな。
 ジョーも、子供じゃないんだ。自分の事くらい自分で何とかするだろう。
フランソワーズとの事だって、ちょっかいを出したジェットを退けて、自分
で何とかしたんだから。こいつには、ちょっとしたきっかけさえあればいい
んだ。
「ああ、そうだ」
 俺は、唐突に思い出した。
「向こうには、俺は腕を怪我して引退した元ピアニストで、お前は俺の教え
子、と伝えてある。付き合えよ」
「そんな。僕、ピアノ、弾けないよ」
「教授する事が、ピアノとは限らん。まさか、向こうも弾いてみろとは言わ
ないだろう」
 そんな会話をしながら電車を降り、予め確認しておいた道を辿って、ベー
ゼンドルファーの日本支社までやってきた。受け付けで名を告げると、直に
スーツ姿の若い男がやって来て、挨拶を交わす。
 横目でジョーを見てみた。生成りのシャツを羽織っただけのジョーは、ど
う見ても学生にしか見えない。週一でも、一応学生やってんだよな、こいつ
は。
 スーツの男は、早速俺たちを目的の部屋へ案内してくれた。その部屋は、
空調が効いているのだろう。乾燥した空気の中に、微かに埃の臭いが混じる。
さりとて湿度が低すぎる訳でもない。とどのつまりは、日本の梅雨は湿気が
多すぎるんだ。
 俺の目は、すぐにある楽器に引きつけられた。一台のピアノだ。
 スーツの男が、そのピアノに近づき、手で指し示した。これが、俺の求め
ていたピアノだということだ。
 俺も、近づいて、そのピアノに触れようと、手を延ばした。だが、思い直
した。迂闊に触ると、壊れてしまいかねんからな。
「弾くのかい、ハインリヒ」
 ジョーの声が、後ろから聞こえた。うっかりしてた。もう少しで、こいつ
を忘れる所だった。
「そうだな。弾かせて貰えれば、有り難いが」
 スーツの男は頷いて、蓋を開けてくれた。白い鍵盤と、黒い鍵盤が、灯の
中に甦る。
 俺は、そっと左の手の指を置いた。ひとつひとつ、慎重に鍵盤を押してい
く。その音色は、ピアノ自身、まだ音を出せることに驚いているかのように、
高く澄んでいた。まるで、梅雨の晴れ間を思わせる響きだ。
 振り返ってジョーを見ると、目を大きく見開いてこちらを見ている。
 俺は、思わず口許がゆるんだ。
「いい音だろう。ヴィクトリア王朝時代の音の再来だ」
「ヴィクトリア?」
「ああ。このピアノは、確か、1850年代製なんだ」
 傍らのスーツの男が頷いてくれた。記憶は間違っていない。
「その年代のベーゼンドルファーは、今ではほとんど残っていないそうだ。
ジョー、どうだい、この音色。とても壊れかけとは思えないだろう」
 俺は、再び鍵盤に目を落とした。ゆっくり、聞き慣れたメロディを再現し
てみる。今度は、柔らかな空気に包まれていく感覚をおぼえる。全く不思議
な楽器だ。
「本当に壊れてるの、これ」
 ジョーの遠慮がちな声がした。振り向かなくても、わかるぞ。少々上擦っ
た顔をしているに違いない。
「壊れていない。壊れかけだ」
 言ってから、しまったと思った。仮にも所有者の前で、何てことを言った
んだ、俺は。
 慌ててスーツの男の顔を見ると、気にしていない、と手を振ってくれた。
俺はその男に向き直り、非礼を詫びた。
 スーツの男は、俺に部屋の照明や空調の説明をすると、奥にいるからと部
屋を出ていった。
 ジョーは、俺と二人きりになると、もう一度ピアノを弾いてくれと言う。
「気にいったか」
 聞くと、ジョーは嬉しそうに笑った。
「フランソワーズも連れてくればよかったよ」
 そーかよ。
 フランソワーズは幸せ者だな。何処にいても、お前に思って貰えて。きっ
と、彼女もお前と同じように思っているさ。そして、二人で思い合っていら
れれば、他に誰もいなくたって、幸せな筈なんだ。
  だが、今くらいは。
 俺は、目の前で笑う、ジョーの顔を見る。
 ジョーが俺の目の前にいるときくらいは、俺がジョーの事を思ってもいい
だろう。心配するな。これは、可愛い教え子へのアドバイスだ。
「壊れかけでも、古くても、音は出るもんだ。ちゃんと丹精してやれば、壊
れるその寸前まで、な。それに、本当は、音に古いも新しいもないと、俺は
思う。古いピアノが奏でる音色は、今、俺たちが聞いている音だ。今、俺が
弾いている。なあ、ジョー。どんなピアノだって、弾かなきゃ音は出ないん
だ。弾かなきゃ、どんな音色かなんて、わからない」
「……何の話?」
「ピアノの話だ」
  言い終えて、俺はジョーに背を向けた。こいつの顔なんか、見なくてもわ
かる。口を開きかけた途端、背を向けられて、言いたいことも言えずに下を
向く。そう。早く、言い出せるといいな。
  俺は、もう一度ピアノに対峙した。何だか、倒さなければならないライバ
ルと向かい合っている気分だ。おかしなものだ。ジョーに何か告げる度に、
俺の気分も変わっていく。
 今度の音色は……そうだな。
 きっと初夏の風のように軽やかだろう。





                            「ピアノ」  009狂想曲  第八番    終


                     (C)飛鳥  2002.12.27.