夢だと思う。 ぼくは、草原の真ん中に立っていた。 今日の草原は、緑色だ。風が通ると、草がなびいて道筋がみえる。それは 遙か遠くまでつづく、果てしない道のようだ。 ぼくは、また、叫びたい衝動にかられる。目茶苦茶に走り回って、草をむ しってやりたかった。実際に何度もそうしていた。ぼくは、もう何回も、こ んな草原の夢を見ているんだ。 ある時は、雪のように白く枯れた草の中にいた。ある時は、花でうずもれ ていた。ある時は、綿毛がたくさん飛んでいて、ぼくはくしゃみばかりして いた。そして、今日は、緑の草の中だ。 いつもと違うと思ったのは、手に何かを持っていたから。 それは、一冊の本だった。 これは、確かに夢なのだ。 だって、その本の裏表紙には、 『大好きなイワンお兄ちゃんへ』 と記してあったんだから。 文字の形からして、小さな子だな。ぼくのことをお兄ちゃんと呼ぶってこ とは、ぼくより年下だった時期があるんだ。 ちょっと待て。この表現は、おかしいぞ。 今のぼくは、本を手して立っている。どのくらいの背丈なのか、どんな服 装をしているのか、どんな顔をして立っているのか、そういうことは、全然 見えないけれど、とにかく、ぼくは立っている。そして、一冊の本を見つめ ているのだ。 その本は、歌集だった。著者の欄には、ふたりの名前が記されていた。で も、何故か読めない。文字は確かにあるんだけど、判読できないんだ。ひと りは女性で、ひとりは男性の名前。それは判る。ふーん、合同歌集なんだ。 題名は何というのだろう。ページをめくってみる。すると、 『未来』 という文字が、浮かんで見えた。 へー。みらい、ねえ。 何だか、ぼくは意地の悪い気持ちがした。 未来だなんて、そんな言葉、ありきたりだよ。もっとカッコいい名前をつ けたら良かったのに。短歌作っている割りには、言葉のセンス、無いんじゃ ないの。 そんなこと、ないよ。 声が聞こえた。子どもの声だ。 誰だよ。出てこい。 くすくす笑う、子どもの声が、また聞こえた。 あなたの目の前にいるよ。 目の前だって? ぼくは、本を見つめた。 お前は、この本なのか。 その本の作者だよ。 どういうことだ。 わたしは、大好きなイワンお兄ちゃんに、会いに来たんだ。 本が? 本じゃなくて、わたしが。だって、イワンお兄ちゃんは、わたしのお願い をなかなか聞いてくれないんだもん。 お願いって、何。 聞いてくれるのなら、教えてあげる。 変なやつだな。そのために来たんだろう。 本のページが、パラパラめくれた。開いたところに、一首の歌が見えた。 今度は、判読できる。 この歌を読んでちょうだい。 子どもが言った。 この歌を読むのか。君のお願いって、それだけ? 今はそれだけ。早く読んでよ。 ぼくは、示された歌を読み上げた。 逢うことを 望みてゆけば 夕暮れの 中にぞ君が 立ちて待ちいる 読んだよ。 うん。ありがとう。 これだけでいいの? うん。 ぼくは、続きが気になって、尋ねてみた。 これ、恋の歌だよね。 わかんない。 わかんないって?君の作った歌じゃないの? 違う。 じゃ、誰の歌? 教えない。 ずるいよ、それ。 子どもは、返事をしなかった。 ぼくは、思い出していた。歌集には、ふたりの著者がいた。ぼくに話しか けてきた子は、そのどちらかに違いない。今読んだ歌の作者は、男?女?ど ちらだろう。 あのね。 ふいに、声が聞こえた。 わたし、大好きな人が沢山いるんだ。 ぼくはびっくりした。 それでね、その中で、一番大好きな人は誰かなって、考えたの。パパとマ マは別にして、だよ。 うん。 わたしはね、イワンお兄ちゃんだと思ったんだ。でも、パパはダメって言 うの。どうしてってパパに聞いたら、パパ、怒るの。とにかくダメって。 ふーん。 そうしたら、ママが言ったよ。パパはみんなダメって言うに決まっている から、内緒にしておきましょ、って。 なんとなく、想像がつくな。 イワンお兄ちゃんも、パパとママが好きだといいんだけど。 ああ。きっと大好きだよ。 ほんと?よかったあ。 ねえ、君の名前は、何て言うの。 名前? 君の名前。 知らない。 知らないだって。 だって、まだ生まれていないもん。 なんだって? わたしは、これから生まれるんだ。 でも、パパとママって言ってたじゃないか。ぼくのことも大好きだって。 そうだよ。これから、わたしが生きていく場所のことだもん。ちゃんと見 てきたから知ってるよ。でも、名前は知らない。名前は、命と同じくらい大 事なものだから、先に見ることはできないんだって。イワンお兄ちゃんは、 忘れちゃったの?赤ちゃんは、パパとママを自分で選んで生まれるんだよ。 その言葉は、ぼくに小さくはない衝撃を与えた。 自分で選んで、だって?それじゃ、ぼくは。ぼくたちは。生まれる時に、 自分で選んだっていうのか。痛みも、苦しみも、自分で選んで、ぼくたちは。 イワンお兄ちゃん、待っていてね。お願いだよ。 子どもの声が聞こえた。 わたし、きっと生まれてくるから。待っていてね。待っていてね。 夢は、そこで終わった。 目を開けると、ぼくは、ジョーの腕の中にいた。ジョーは青い顔色をして、 ぼくの顔を覗き込んでいた。ぼくが目覚めたのを知ると、彼は大きく息を吐 き出した。 「イワン。起きたのね」 フランソワーズの声がする。 「良かったじゃないか。今回の被害は、小さくて」 これは、ハインリヒの声だ。 そうか。ぼく、また昼寝をしちゃったんだ。 「天気がよいから、はしゃぎすぎたかのう」 ギルモア博士。 「いい子守歌が聞こえていたからな」 ジェロニモが笑う。 そうだ。天気がいいから外でお茶にしようという事になったんだ。 空は青いし、樹々は若葉を茂らせて、初夏の風を誘っている。 ぼくは、フランソワーズに抱かれて外に出て、風が気持ち良くて、うれし くて。眠くなっちゃったんだ。 そっと、ジョーの顔を見る。昼寝をしている時の自分の状態は、みんなか ら聞いて知っているから。 (ジョー、ごめん) 「何あやまってんのさ」 お尻を軽く叩かれた。そのままフランソワーズに渡される。フランソワー ズは、ぼくに頬ずりをして笑ってくれた。 「のど、乾いてない?ミルクかジュース、飲む?」 (ジュースがいい) フランソワーズは、にっこりと笑った。 ぼくはまた、ジョーの膝に戻された。ジョーの顔色は、もういつもの明る い色に戻っている。 「待っててね、すぐ用意するから」 うん。待つのもいいもんだよね。それが、自分の選んだ未来を、待ってい るのなら。 ぼくは、思う。ぼくは確かに、こんな未来も選んでいたんだ。 君がぼくたちのところへ生まれてきてくれるというのなら、のどが乾いて 苦しくても辛くても、待っているよ。信じている。いつかきっと、ぼくは君 との未来を手に入れる。 でも、その前に。 ぼくは、どうやって『パパ』なる人物を攻略するか、考えなくちゃいけな いな。 「草原」 009狂想曲 第七番 終 (C)飛鳥 2003. 5. 3.