009狂想曲 第六番

  

4月 大学




  最初、ジョーはジェロニモを誘っていた。それを聞きつけたイワンが、一緒に行き
たいと言いだして、連れていってもらうことになった。そうなると、一人でギルモア
邸に残っていても仕方がないので、ぼくも行くことにした。
「ピュンマ、ホントによかったのかな。大学へは、紙を一枚か二枚、出しに行くだけ
なんだよ」
  ジョーが、車の運転席から首を曲げて、助手席のぼくに話しかけてきた。
  声はよく聞こえるから、頼む、前を見ていてくれ。ただでさえ助手席は、スリルが
あるんだから。
「イワンは、ぼくが抱いててやるよ。ジェロニモと用事があるんだろう」
  後ろに頭をやると、チャイルドシートに坐ったイワンと、ちょっと窮屈そうなジェ
ロニモが頷いていた。
「ああ、一緒に並ぶと、早く済むそうだ」
  ジェロニモが言う。
「何しに行くんだい」
  ぼくが尋ねると、ジョーは、はにかんだような笑顔を見せた。
「履修登録」
「聴講の?」
「そう。郵送期限、今日までだったんだ。うっかりしてて出しそびれちゃって。だか
ら、大学まで、ドライブがてら」
  窓の外は、新芽を吹いた樹々が流れ、新しい季節の声が風にのって聞こえてきそう
だ。
  スピードは出ているが安全運転に違いない自動車の中で、ぼくは、ギルモア博士に
呼び出されたときの事を思い出していた。
「大学に入学するよう、ジョーを説得してほしい」
  そんな事を、ギルモア邸に着くなり言われても、こちらがびっくりするばかりだっ
た。
  しかも、呼び出されたのは、ぼくだけではなかった。ジェロニモやハインリヒまで
が、日本に来ていたのだ。ハインリヒは、たまたま仕事の都合が重なっただけと言っ
ていたが。
  どうやら、ギルモア博士は、この冬の間に親心というものが働いたらしい。
  ジョーは、もう一年近く、大学へ講義を聴講しに行っている。もともとはイワンに
頼まれたかららしいが、こうなると、それも怪しいのではないか。今では、大学生の
友人もできて、ジョーはそれなりに学生らしい一面をみせるようになっている。
  そして、時は大学入試シーズン。博士が、ジョーも受験を、と考えたのだが、当の
本人には全くその気がなかった。慌てた博士が、各地に散っているぼくらに緊急指令
を出した、という訳だ。
  でも、そうかといって、すぐさまジョーに大学入学を薦める訳にもいかなかった。
無理やりではかえって強情なジョーには逆効果だし、フランソワーズから話をと思っ
ても、それで済むなら、ぼくらが呼ばれる筈がない。案の定、彼女は失敗していたし、
イワンは、ちょうど夜の時間で安眠中だった。
  在日組はことごとく失敗しているし、ハインリヒは素知らぬ風を決め込んでるし、
ジェットはいないしで、ジェロニモとぼくは困って食欲不振に陥り、それを見かねた
ジョーが折れて、もう一期聴講を続けるという事でギルモア博士も納得した。
  そうそう、今回の役回りで、一番いいくじをひいたのはジェットだ。彼は、何やか
やと理由にもならない事を並べ立てて、ギルモア博士の呼び出しを断っていた。
  ジェットの噂話の最中、ジェロニモは、意味ありげな笑みを口の端に浮かべていて、
それなりに迫力があった。その傍でフランソワーズは首を傾げ、ジョーは冴えない顔
で笑っていた。その理由を……ぼくは、まだ聞く気になれない。
  大学の門をくぐって手慣れた様子で車を駐車場に停めると、ジョーはさっさとイワ
ンを抱き上げて歩きだした。その後ろにジェロニモが続く。少し後れて歩くぼくは、
何故ジョーがジェロニモとイワンを大学に連れて行こうと考えたのか、理解した。
  大学の中は、学生であふれかえっていた。道の端から端まで、行ったり来たりする
学生が続き、手に手に真新しい鞄や本を持っている。建物に入る学生、出てくる学生
と、入り交じって混雑する中、ぼくらの姿を見るとみな一様に道を開けてくれる。
 威風堂々とした大男と、赤ん坊を抱いている少年。
 見慣れないと、近寄りがたい雰囲気があるよなあ。
 ある建物の入り口で、ぼくはイワンを預かった。そして、ジョーはジェロニモと共
に、悠々と奥のカウンターに赴き書類を提出すると、あっという間に用事を済ませて
きた。
「おまたせ、ピュンマ」
  ジョーが笑顔で戻ってきた。
  やれやれ、だ。
  ぼくらは、この為に呼ばれた訳だ。
「今度は、何の講義を聴講するんだい」
  ぼくは、駐車場に戻る間に、ジョーに尋ねた。
「一つは、去年と同じ雑学講座で、もう一つは考古学。ちょうど同じ日にやるんだ」
「二つ取ったのか」
「ああ。博士が、一つ聴くのも二つ聴くのも同じだからって。駄々をこねて、また君
達が食欲不振になったら困るし」
  まったくだよ。
  でも。
  君は、嬉しそうな顔をしてるぜ。
(ジョーは、素直じゃないね)
  ぼくの腕の中で、イワンが身をよじった。
(ジョーは歴史に興味が出てきたみたいなんだよ)
  へー。よかったじゃないか。悪巧みが成功したようで。
(君達ほどじゃないけどね)
  ふん。黙っていてくれよ。
(お互いさま)
  内緒話はこれで終わりだ。
  帰りに、張々湖飯店へ寄ってくれるよう、ジョーに話してみよう。きっと在日組は、
悔しがるに違いない。
  ふと、顔を上げると、学生の姿がなかった。もう駐車場の側まで戻ってきていた。
 その場所は、いつだったか、フランソワーズが話してくれた銀杏の並木道。今は、
青い若葉が風を遮りはじめている。それは、やがて濃い影を落とす夏を通り越して、
再び黄金色の黄葉の輝きに包まれるのだろう。
 後ろを振り向くと、木立の向こうに人影が動いている。つい先刻まで、ぼくらはあ
の中にいたんだ。さざめく日の光の下で、彼らは何を見、何を話しているのか。急に、
あの中に戻りたくなった、と言ったら、ジョーは笑うだろうか。それとも、困った顔
をするだろうか。
「何、ピュンマ」
  じっとジョーの顔を見ていたら、声をかけられた。
「何でもない」
  ぼくは、頭を一振りした。
「なあ、ジョー、帰りに張々湖飯店に寄って、何か食べていかないか。今日は、ギル
モア博士もフランソワーズもハインリヒも出掛けていないだろう」
「そうだね」
  この時返事をしたジョーは、その後、張々湖飯店でこき使われるとは、思いもしな
かったろう。
  悪かったね。君が大学に通う事が決まったら、ご飯をただで食べさせてくれるとい
う約束をしていたんだ。在日組は、太っ腹だったから、さ。





                                    「大学」  009狂想曲  第六番  終


                                               (C)飛鳥  2003. 4.3.