一面の。 と言うには少々申し訳ない広さだ。ギルモア邸の中庭は、どこからか種が飛んでき て、今、菜の花が花盛り。 その庭に、何故我輩がいるかというと、トッピングに使うためのクローバーを探し にきたのだ。三つ葉のクローバーがふさわしい、その飲み物を、同じヨーロッパ出身 の男に味わってもらおうと思って、な。 しかし、先客がいた。ジョーとフランソワーズである。フランソワーズはその腕に、 眠っているイワンを抱いていた。 「グレート、何か探しているの」 フランソワーズの眩しい笑顔が、問いかけてきた。だが、ここで本当のことを言え ば、ジョーもフランソワーズも手伝うと言いだすに決まっている。それは、避けたい。 極力二人いっしょの時は、傍にいないようにしなければならない。それが、ギルモア 邸のカップルへの、正しい接し方、である。 「ああ、もう見つかったから、気にしないでくれ」 我輩は、後ろ手でそっと菜の花の頭をむしった。 「今日はどうしたんだ。イワンは夜の時間だろう?」 ジョーに向かって聞いてみる。足はしっかり、建物のドアに向かいながら。 「ああ。フランソワーズがイワンにも見せたいって。起きるころにはきっと散ってし まってるだろうから」 「夢の中で、見ているかもしれないわ。そう思わない?グレート」 「そうだな、そうかもしれないな。では、ごゆっくり」 急いで扉をすりぬけた。 キッチンへ行って、菜の花を洗う。そのままコップにさしておいて、我輩は、コー ヒーをたてはじめる。濃いめにいれるのがコツだ。それから砂糖。隠し味として必要 だ。そして、生クリーム。泡立てなきゃならんのが面倒だが、今日は致し方ない。肝 心なのは、アイリッシュウイスキーである。銘柄はいろいろあるが、人の好みに勝る 美味さはない。そういう訳で、我輩の好みの酒を用意した。 砂糖とウイスキーを鍋にいれて軽く煮溶かす。耐熱のグラスにそれをいれ、上から コーヒーを注ぐ。ホイップクリームをのせて、仕上げに菜の花をクリームの上に飾る。 本当は、緑の三つ葉のクローバーを飾りたかったが、菜の花の四枚の花びらも、これ はこれで俺たちらしい気がする。 用意ができたら、後始末もそこそこに、あの男の部屋へ行く。今日は特別に、出前 をしてやろう。 ノックをすると、直に扉が動いた。奥から薄い色素の男が顔を覗かせる。我輩が手 にしているトレーのグラスを見て、眉間に皺を寄せた。 「何の用だ」 おいおい、そりゃないぜ。 「出前に来た。中にいれろや、ハインリヒ」 そう言って、少々強引に扉を押し開けた。意外にも、ハインリヒは素直に我輩を部 屋に入れてくれた。サイドテーブルにトレーを置き、グラスの一つをハインリヒに手 渡す。 「こんな真っ昼間から、俺に酒を飲ますつもりか」 「コーヒーは好きだろう」 「ただのコーヒーは、な。これは、カクテルだろう?美味いのか」 「当たり前だ」 「ふん」 憎まれ口を叩きながら、ハインリヒはアイリッシュコーヒーを一口飲んだ。 「美味いな」 「当然」 我輩も口に含んだ。 「今日は、これを飲みながら、お前さんと話がしたかったのさ」 我輩は、窓に寄った。この窓の下には、ちょうど中庭があり、よく見える。 「で、話というのは」 ハインリヒは、ベッドに腰掛けていた。 「ああ。3月17日は何の日か、知っているか」 我輩が問うと、ハインリヒはしばし考えて言った。 「確か、聖パトリックの日、じゃなかったか。カトリックの国アイルランドの守護聖 人パトリックの命日で、アイルランドでは盛大に祝うはず」 「その通り。さすがだな」 「で、それが、このアイリッシュコーヒーの理由だというのか」 「まあ、待て。先を急ぐな。その日、信者は三つ葉のクローバーを身につけるのだ。 これは、知っていたか」 「いや、緑色の小物を身につけるとは、聞いていたが。カトリックの教え、三位一体 の象徴だな」 「そうだろう。それで、このアイリッシュコーヒーにもクローバーを飾りたかったん だ。しかし、探せなかった。代わりに菜の花を摘んで、のせてみた」 「それのどこがアイリッシュコーヒーを持ってきた理由なんだ」 「誰もそんなこと、話しとらん」 「あのな……」 ゴホン、と我輩は咳払いをする。 「だから、先を急ぐなと言ってるだろう。クローバーの代わりの菜の花だが、のせて みると、なかなかいいもんに思えてなあ。ハインリヒ、お前さんはどう思う?クロー バーが三位一体説を表しているとしたら、菜の花は、どんな意味を持つと思うか」 ハインリヒが、大仰に溜め息をついた。 「知らん」 「話しがいのない奴だな」 「お前が、訳のわからん話をしているんだ」 ここで、ハインヒリはグラスを掲げてみせた。 「これは美味いがな」 我輩は、もう一度ゴボンと咳払いをする。 「続けるぞ。菜の花は、愛と勇気と友情と、希望の象徴だ」 これを聞いたハインリヒは、目を見開き、口をポカンと開けて我輩を見た。 「嘘だと思うなら、ここに来て見てみろよ」 我輩は、ハインリヒを窓辺に誘った。彼は、素直にやってきて我輩の横に立った。 そして、窓から中庭を見下ろすと、口の端に笑みを浮かべる。 「ひとつ、足りないな」 ぽつりとハインリヒが言う。 「これから、だ」 我輩も、外を見た。 ここから見下ろすと、黄色い花の中に三人の姿が見える。フランソワーズとジョー とイワン。花びらの四枚目は、まだいない。 「尻を叩いてやってくれよ」 我輩は、言った。 「見ていると、心配だ」 「ほっとけ」 ハインリヒは、すげなく言いきった。 「本人の問題だ。傍で見ているお前さんたちには悪いが、俺は、今のままでも結構楽 しんでいる」 「アイリッシュコーヒーをいれてやったじゃないか」 「頼んでない」 ハインリヒは、我輩に不敵の笑みを向けた。 「お節介は、楽しくやるもんだ」 退却するしかないか。 その時、扉を叩く音がした。ハインリヒが開けると、コーヒーの匂いが漂ってくる。 ピュンマとジェロニモが、それぞれ両手にコーヒーカップを持って立っていた。 「入っていいかい、ハインリヒ」 言いながら、ふたりはさっさと部屋に入ってきた。 「グレート、やっぱりここにいたね」 ピュンマが、コーヒーカップをひとつ我輩に渡してくれた。ハインリヒには、ジェ ロニモが手渡している。 「それ、もしかして、アイリッシュコーヒー?」 ピュンマが我輩のもう一方の手の中の、グラスを見つめて言った。 「ああ」 「じゃ、酔い覚ましにちょうどよかった」 コーヒーカップをちょっと掲げて、悪戯っ子のように笑う。 「キッチンにいったら、コーヒーをいれた跡があったから。僕等もお邪魔させてもら おうと思って、おかわり、持ってきたんだ」 ピュンマは窓に歩み寄り、頻りに下を覗いている。 「ここからだと、眺めがいいんだよね」 ジェロニモも頷きながら、ピュンマの横に立っていた。 ハインリヒを見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしている。 まあ、仕方がないさ、ハインリヒ。これが、ギルモア邸における、正しい野次馬と いうものだ。 「菜の花コーヒー」 009狂想曲 第五番 終 (C)飛鳥 2003. 2.5.