不覚。 まさか、こんな時に寝込んでしまうとは。 「張大人、お粥、持ってきたよ」 ジョーが、ドアの向こうから、小さな土鍋を持って現れた。 「具合どうだい。フランソワーズが、食べやすいように梅粥にしたって」 ベッドの側のサイドテ−ブルに土鍋を置いたジョーは、わたしが体を起こ すのを手伝ってくれた。 「ありがとネ。目眩は治まったアルヨ」 「無理しないでよ。正月行事は、まだまだ続くんだろう」 そうなのだ。 日本の二月は、ちょうど中国暦の正月にあたる。正月行事は、本来元旦か ら十五日間も続くことになっていて、こんな風に寝込んでいる場合ではない のだ。 「悔しいアル。せっかく今年は獅子舞も用意したというのに」 わが張々湖飯店では、毎年中国正月を祝う。大晦日にあたる日は、朝から ギルモア邸のみんなを駆り出して、大掃除をした。店の内装も手をぬかず、 赤い布と提灯とを飾りつけた。爆竹を鳴らすことはできないが、大晦日の深 夜のうちから店を開けっ放しにし、正月料理は腕に縒りをかけて作ってお祝 いをしている。 ああ、それなのに。 張々湖ともあろうわたしが、風邪をひいてしまうとは。 「鬼の攪乱」 と言ったのは、誰だったか。 昨夜、寒けと目眩が同時に襲ってきた時、わたしの耳に届いた言葉だった が、声の主を確認できなかった。これも悔しい。 「はい、食べて」 ジョーが粥を小皿に取り分けて、スプーンと一緒に押しつけてきた。一見 乱暴なようだが、それでも、わたしがしっかりと受け取るまで、決して皿を 持つ手の力を緩めなかった。まだ熱があって覚束ないわたしの指先は、思う ように力が入らない。ゆっくりと動かすわたしの手を見つめながら、ジョー は辛抱強く、皿の中の粥がなくなるのを待っていてくれた。 「おいしいネ。誰が作ってくれたアルか」 空になった皿に、再び粥をよそってくれているジョーに、聞いてみた。 「フランソワーズだよ。さっき言ったじゃないか」 「そうだったか」 ジョーが笑顔で答えてくれた。この子は、フランソワーズの名前を口にす る時、本当に嬉しそうな顔をするね。 「店には、誰が行ってるか」 少し体が楽になってくると、店の事が心配になってきた。まさかと思うが 休業にしてしまったんじゃ。 「心配いらないよ。ちゃんと張大人が決めたスケジュ−ル通りにやってるか ら。今年は何人助っ人がいると思っているんだい。最終日に獅子舞をやるか ら絶対見に来いって言って、みんなを呼び寄せたじゃないか」 そーでした。 わたしは、粥をすすった。 「イワンも楽しみにしているし、僕も、張大人が獅子舞やるところ、早く見 たいよ。早く元気になってよ」 うんうん。フランソワーズの手作りの粥を食べたら、すぐ良くなる。 嬉しいやら、悔しいやら、自分でもわからない感情が浮かんでくる。古里 を遠く離れて、それでも毎年正月を祝ってきた。日本の正月とは時期が違う 中国正月を、目の前に現れる違和感に悩みながらも続けてきたのは、一体何 の為だったか。こんな風に、泣き笑いする為だったのか。 グレートの声がした。 「よお。元気になったか」 いつの間にか部屋に来ていたグレートは、ジョーに目配せをしている。 「イワンが眠そうにしているんだ。昼寝をするかもしれん」 「ええっ!?」 ジョーの顔が厳しいものになった。 イワンが、昼寝。イワンが昼寝をする。赤ん坊だから、当たり前ではない か……。否。イワンの昼寝は、当たり前のものでなくなって、久しい。 「ジョー、こっちはいいから、イワンのところへ行くヨロシ」 わたしは、気分が高揚するのを感じていた。 「ああ。グレート、あと頼むね」 「お前さんもしっかりな」 ジョーは、グレートと言葉を交わすと、早足で部屋を出ていった。 グレートはやれやれといった感じで、ジョーが坐っていた椅子に腰掛ける。 わたしは、気になる事を尋ねてみた。 「イワンに風邪をうつしてしまったか。イワンの様子はどうだったアル」 「朝からご機嫌だったぜ。風邪なんて、丸めて蹴飛ばしてバイバイ、しそう なほど元気で。だから余計に眠くなったんじゃないか」 グレートは、開いているドアの向こうを気にしているようだった。 無理もない。イワンの昼寝は、寝てみてくれないと、どうなるかわからな いから。先月は、おとなしかった。先々月も、おとなしかった。そうすると、 今回は、とても危ない。 わたしは、急いで残りの粥を呑み込んだ。土鍋の中の粥はまだ充分に熱く、 口の中で風邪の熱と格闘をしているみたいだった。それでも、どんどん口に 粥を含んで呑み込んでしまうと、体も顔も頭もほかほかと温かくなった。 グレートを見ると、手を握りしめてじっと坐っている。 「そろそろか」 「そろそろアルネ」 わたしたちは、ふたりして拳を握った。 途端に聞こえる、フランソワーズの悲鳴。ジョーのイワンを呼ぶ声。ドタ ンバタンとぶつかる音に、ガラスか陶器かが割れる音。それから、部屋が揺 れはじめた。ドスンドスンと数回上下して、幸いに収まった。 ジョー、感謝する。 「今回は……小さい方だな」 グレートが、椅子にしがみついたまま言った。 「おい、寝てなくていいのか。張大人」 わたしは、ベットから起き出して、着替えはじめた。 「寝ていられる訳ないネ。フランソワーズもジョーも、今日はもう起きてい られないヨ。下の後片付けに、夕食の用意。忙しくなるネ。あんたはんも手 伝うヨロシ」 「へいへい」 着替え終えると、空の土鍋を持って、階下へ降りていく。 リビングは予想通り、荒れていた。ソファーの上では、ジョーが前へつん のめるような格好で坐っている。その腕には、しっかりとイワンを抱きしめ ていた。どうやら、今は、落ち着いているようだ。 グレートが、小さな声で話しかけた。 「ジョー、大丈夫か」 ジョーの顔が、のろのろと上を向く。 「ああ……あまり近づかないで。イワンのテレパシ−、強いんだ」 そう言うと、イワンを抱きなおして、再び俯いた。 イワンは、昼寝をする時、ときどき今回のように超能力が暴走するのだ。 それは、或る事件が切っ掛けで始まった事で、徐々に収まりつつあるとはい え、その暴走に対応できるのは、今のところジョーしかいない。しかも、厄 介な事に、昼寝の間中、テレパシーを発し続けているから、迂闊にイワンに 触れる事もできないのだ。身内では、これをイワンの寝ぼけ攻撃と呼んで警 戒している。不思議と、ジョーが抱いているとテレパシーは彼ひとりに向け られるので、ジョーは必然的にイワンの昼寝の番人となった。 グレートとわたしは、リビングを通り抜けて、キッチンへと向かう。果た して、そこには、真っ青な顔をしたフランソワーズがいた。 「張大人、起きて大丈夫なの?」 フランソワーズの声は、震えていた。 「もう平気ネ。お粥をありがとう。さあさ、フランソワーズ。部屋へいって 休むヨロシ。あとの事は、引き受けるから」 「でも」 「大丈夫、大丈夫。グレートはん、頼むよ」 フランソワーズと、彼女を支えていくグレートを見送ると、わたしは腕ま くりをして、先ずは粥の入っていた土鍋を洗う。 飲み物を用意してあげよう。何か飲めば、フランソワーズも落ち着くだろ うし、ジョーも気が紛れるだろう。 やかんを火にかける。食器棚からカップを用意する。ここの食器を割られ ると困るから、扉にストッパーを付けておいたのがよかった。それから、冷 蔵庫を開けて、今夜の食事の材料の確認をする。ジョーの為にも、うんとお いしい、精のつくものを作ってやらなければ。 グレートが戻ってきた。 「やっぱり、張大人はそうやってんのが似合ってるよ」 そう言いながら、リビングを頻りに覗いている。 「まさに鬼の攪乱だな」 わたしの耳は、グレートの言葉を聞き逃さなかった。 あれは、あんたはん、か。 わたしは、込み上げてくる笑いを、必死で噛み殺した。 頭に浮かぶのは、家族という文字。 そう。これが、理由なのだ。 「風邪」 009狂想曲 第四番 終 (C)飛鳥 2003.1 .15. 補足: 中国正月 2003年は、2月12日。