009狂想曲 第十二番

 

10月 夕暮れ

 



誰そ彼と 尋ねることも うれしくて 歩いてみやる 夕暮れの道


 いつだったか、彼女は、わしにこんな歌を詠んで聞かせてくれた。
『たまには外に出なさい。部屋に籠もって研究ばっかりしてないで』
 そう言って、背の高い彼女は少々強引に、わしを外に連れ出した。
 ちょうど夕暮れ時で、木立の向こうに広がる海と空は、赤く霞んでいた。
『ギルモアも詠んでごらんよ。何でもいいんだから』
  そう言われても、和歌とか短歌とか、日本文学には馴染みがない。
『日本に住んで何年になるの』
  振り返る少女は、背伸びをして、わしを見る。
  年なんか、もう忘れたよ。
『つまんない』
 わしは、けっこう楽しいよ。お前は、なかなか賢い。
『何それ。誉めてるつもり』
 ああ。
『ギルモアは、おもちゃ箱だね。何でも入ってるくせに、見つけるの下手』
 じいさんだからな。
 小さな女の子は、頬を膨らませている。
『そんなこと言うと、パパとママとお兄ちゃんに言いつけるよ。みんなにも
メールを出しちゃうもん』
 はっはっは。


 そこで目が覚めた。
 いつの間にか、書斎の机の上に伏して、眠ってしまったらしい。
 時間は。
 おや。時計が止まっている。
 窓の外を見ると、茜雲が飛んでいた。もう日暮れだ。
 今日は、一日、風のない穏やかな日だった。暖かくて清々しい……ほっほ。
先刻の夢に出てきた彼女が聞いたら、きっと怒るだろう。『ギルモア、その
日本語、おかしい』とな。
 懐かしい夢だった。
 本当は、自分の過去に、彼女と過ごした時間などない事はわかっている。
それでも、懐かしいと感じるのは、何故だろうか。
  大きくなったら、さぞかし美人になるだろう。どんな恋をするのだろうか。
生意気盛りの女の子の扱いは難しそうだ。両親に愛されて、きっと素直な良
い子に育ってくれるだろう。元気に生まれてきてくれる事が何よりだ。
 こんな風に夢である筈の物に、勝手に物語を続けてしまうのは、果たして
良いことなのか。
 夢を紡ぐべき人間は、別にいる。彼らは、夢を現実にする若々しい力を、
情熱を持っている。
 それは、激しすぎて、時には戸惑うこともあったようだが。
 大丈夫だ。時間は君たちの上に、輝かしい未来を運んでくる。そして、懐
かしい命の産声も。
  わしはときどき思う。
 窓の外は、美しい夕映えだ。輝かしい光に縁取られた雲が空を走り、茜色
の風が一日の名残を投げかける。
  それなのに。
 それを見ている、わしは何処にいる?
 窓の中、だ。四角い枠の中にいる。
 現実は窓の外で、着実に時を刻んでいる。ここにいるのは、時を忘れた老
人だ。過去もなければ未来もない。
 それでも、見続ける事を許されるだろうか。この窓の景色のように、美し
く懐かしい子供たちを。
(博士、だめだよ)
 いつの間にか、イワンが後ろにいた。
(そんな暗い顔をしていたら、フランソワーズが心配するよ)
 そうだな。ふたりは、今どうしている?
(こそこそ話が終わったところ。もうすぐここに来る。ぼくは待ちきれなく
て、先に来ちゃった)
 イワンが、わしの腕にすとんと納まった。
(博士、いい夢を見たでしょ)
 知っているのか。
(もちろん。だってぼくも見たんだ。ぼくたちの未来の夢だよ。素敵だね)
 ああ。とてもいい夢だった。
(違うよ。過去形じゃなくて、未来形だよ。博士、勘違いしちゃダメだ。博
士もその物語の主人公なんだから)
 わしが?
(そう。しばらくの間は、フランソワーズにスポットライトが当たるけど、
それが済んだら博士の出番。がんばらなくちゃね)
 ふむ。どれぐらい待たされるかの。
(ジョー次第だね。フランソワーズもしっかりしているし)
 ううむ。
(退屈しのぎに、家の改築をする?設計からすれば、数年はしのげるよ)
 そうだな。考えよう。
 しばらくは、イワンとふたりきりの生活でも、将来の夢があれば。
(うん。夢があれば大丈夫)
 やられたわい。
 どうやら、わしは見続けなければならんらしい。
 ノックの音がした。
 扉が開いて、まずジョーが姿を現した。その後ろにフランソワーズが立っ
ている。
 ジョー、先に言わせてもらおう。
 婚約おめでとう。家を改築して待っているから、いつでも帰っておいで。
 途端に、ふたりの顔が真っ赤に染まった。
 イワンが、笑い声をたてた。わしも笑った。そして、あの歌を思い出した。
夢の中で聞いた歌だ。
 未来で、わしはあの歌を聞くのだろう。彼女はどんな声で歌ってくれるの
か、今から楽しみだ。待っているよ。





              「夕暮れ」 009狂想曲 第十二番 終

                        (C)飛鳥 2003.9.4.